タイトル「愛が はがゆい頃」試読

 順調に二人の暮らしは続いていた。
今までいろんなことがあったが、お互い嫌いではないし、嫌いにならないんだろうな……と言うのは感じていた。
「お前は今日何時に帰るんだ?」
「残業なければ七時くらいですかね。先輩は?」
「俺も今暇な時期だから六時半くらいには家に帰れるんじゃないかと思うんだが……何か用事あったっけ?」
「いえ。そうじゃないんですが、たまには外食って言うのもいいんじゃないかって思いまして」
「予算は? 今月はあんまり贅沢したくないんだが」
 朝食を食べながら、時間を気にしながら、二人してそんな会話をする。
「大丈夫ですよ。食事券手に入れたんでそれ使いたくて」
「いくらの?」
「それが五千円なんですよ」
「ぇ、お前それで賄うつもりなら……」
「いえ。一枚が」
「ん?」
「だから。一枚が五千円って区切りがデカいでしょ? それが四枚あるんですよ」
「ぇ……それは……どう使おうか迷うな」
「全部千円とか電子決済バージョンならチビチビ使ってもいいなと思ったんですけどね」
「はぁ」
「どうせならパッと一気に使いたくなったって言うか……。先輩。高い焼肉とか食いに行きませんか?」
「いいね。ハッと行くか。A5ランク」
「はいっ。じゃあ待ち合わせは駅の改札でいいですか?」
「うん。じゃあそっちの時間に合わせて午後七時にそこの駅の改札で落ち合おう」
「はい」
「楽しみだな」
「そうですね」
「ぁ、そろそろ時間だぞ」
「あーー。まだ歯が磨きたいですっ」
「それは俺もだ。早くしないとっ」
「電車は待ってくれませんもんね」
「まったくだ」
 はははっと笑いながら洗面所に突進してハブラシで口の中を綺麗にする。
コートを手に靴に脚を通し玄関のドアを閉めると鍵を閉める。
「お前鍵持ってるよな?」
「ぁ、はい。大丈夫です」
「じゃ、駅までダッシュな」
「……朝から無駄に体力の消費したくないですけど」
「それはいつもお前のほうが勝ってるから言える言葉だ。俺は勝つまで終わらせるつもりはないよ」
「俺の二歩が先輩の三歩でもですか?」
 これはコンパスの都合上どうしようもない事実だ。それが分かっていても毎回挑むのが彼であり彼と言う者の考え方だった。
雨の日以外。風が強くてもやめないルーティン。年々キツクくなっていく坂道。どうしようもない脚の長さは身長や体格が違うのだから諦めが肝心とは思ってみても、そこは比較してはいけないところだといつも思う。
小さければ低ければ人より倍動けと教わった。本当にそうだと思う。
「だぁぁっーーー!」
 駅まで着く間にある信号はつい最近移動してきたものだ。これが案外円にとっては有利に働いてると思う。
今日は赤だったから二人して駆け足で待機の姿勢を取る。しかしけして青だったとしても迂闊に一歩は踏み出さない。死にたくはないからだ。
「早く青にならないっすかね」
「深呼吸。一回しながらの左右確認な。まだ死にたくないだろ?」
「分かってますって。でも勝負は勝負ですから」
「分かってるよ、そんなことっ」
 こうして信号が青になるのを待ち、左右確認をしてからのダッシュで駅へと急ぐ。
結局勝ったのは今回もケントで、二人ともゼイゼイ言いながら改札を通ってホームへと歩いた。
二人は行っている学校もバイト先も違うのでホームも反対側となる。
先に電車が来たのは円の方で、それに乗り込むと向かい側のホームが見えるドアまで歩く。そして相手の姿を確認して互いに小さく手をあげると笑顔でお別れとなる。
円もケントも授業が始まる時間が違うので一緒に出なくてもいいと思うのだが、互いに留年はしない約束をしたので、学校の自習室・図書館で勉強をしていたのだった。バイトをしているとついつい時間の使い方がいい加減になる。それに同棲していると一緒にいる時はただ一緒にいたいからこういう方法を取ることにしたのだった。





 一日が全力疾走から始まり時計を見ながらの一日があっという間に終わりに近づく。
 午後七時。最寄り駅の改札に先に着いたのは円のほうだった。
 勉強して授業を受けてバイトして今だ。腹が減っている以外何者でもない。

 あーー、肉食いてぇ。

 最初はすぐ来るだろうと思って改札口の近くで待っていたのだが、十分しても彼は来ず、三十分・一時間しても彼は来なかった。待ち合わせしているのは今日のはずだし、時間も間違っていない。円はケントにLINEしたのだが、それが既読になることはなかった。
「いったい……」
 どういうことなんだ……。
 意味は分からなかったが、約束が反故にされたと言うことだけは分かった。だから一時間待ったところで家に帰り、とりあえず腹に何かを入れようと冷蔵庫を開ける。
「……」
 腹は減っているはずなのに何故か食べる気が失せていた。それでもそれは気持ちの問題で腹は確実に減っているのでグゥグゥと鳴っているのだ。仕方がないので牛乳だけ口にするとリビングのソファで彼を待つことにした。

 彼に何があったのか。
何かあったのに間違いはないのだが、それを確認する手立てがない。それが腹立たしくもあり空しくもあった。

 何も音がしないのも嫌でテレビを点けるとソファでウトウトしてしまっていた。
明日もバイトや授業はあるので、もういい加減風呂に入ろうかと思っていた矢先。時計が夜中の一時を少し回った頃、玄関のドアが開いてケントが帰って来たのが分かった。反射的に立ち上がって玄関まで急ぐ。短い廊下を小走りで玄関まで出向き、ここは一発怒鳴ってやろうとしたのだが、それは彼の姿を見て掻き消えていた。
「お……まえ…………。どうしたんだよ、その格好…………」
 彼の服は汚れ、髪もボサッとしていた。そして何より驚いたのは殴られたような傷が顔にあったことだ。
「ただいま戻りました……。時間に行けなくて、その……申し訳ないです……」
「なっ……なんだよ、その恰好……。喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩って言うか、いきなり言いがかりつけられて殴りつけられて」
「ぇっ……」
「殴り合いとかするつもりなかったんだけど! 一対一じゃなかったんで交わすつもりが結局乱闘みたいになっちゃって……」
「そっ……そうか。そりゃ大変だったな。手当しないと」
 初めて見る彼のそんな姿に動揺しながらもその手を取る。
「痛っ……」
「ぁ、ごめんっ」
「いえ……」
「どこか怪我してるのか?」
「たぶん所々……」
「とりあえず風呂入って汚れ落としてこい。それから手当するから」
「はい……」
 相手を風呂場へ追いやると使えそうな薬を探したが、外傷に使うものなどないことに気付いてコンビニに走った。消毒液とパフ。それに外傷用の塗り薬やガーゼとか絆創膏を手っ取り早く買うと急いで家に戻る。するとちょうど彼が下着姿でリビングに来たところだった。
「そこ座れ」
「ぇ? ぁ、はい。コンビニ行ってたんですか?」
「ああ。薬っぽい物何もなかったからな」
「すんません……」
「それにしても……酷いな」
 傷口に消毒液をスプレーすると垂れてきた液をパフで押さえる。全身消毒してから塗り薬を塗って、酷いところにはガーゼを当てて絆創膏を貼ると勢いでポンポンと叩きそうになってグッと手を引っ込めた。
「にしても……。何回もLINEしたんだぞ?」
「すんませんっ」
「連絡もつかないし帰ってないしで、もぅ…………どうしたらいいか……困った」
「本当すんません。通報されちゃって捕まってました」
「ぇっ……えっ? 捕まってって……警察に?」
「はい。だから連絡出来なくて……」
「なにそれ……」
「本当は一晩ブタ箱入りだったんですけど、怪我してるし学生証で身元証明出来たんで身元引受とかしてくれる人がいれば後日事情聞きますってことになりまして……」
「ん? え、身元引受?」
「はい」
「……じゃあその身元引受人って誰に頼んだんだよ」
「えっと……始に…………」
「何で? 俺の方が年上なのにっ」
「あーーーっと、あの……確かに円さんは俺より年上だししっかりしてるけど……俺と同じ学生だから……」
「だから?」
「立場的に弱いって言うか……。あーいうのは働いてた方が印象がいいそうで、バイトの店長か始か迷った末に、迷惑かけても支障が少ない方にしました」
「……そ、そうかよっ」
「はい。すんません……」
「いいよっ、別に!」
 どうせ俺は頼りないよっ。
 そうではないと分かっているのに、やっぱりどこかで納得いかない、いってない。円は以後ムスッとしながら手当をして眠りに着いた。
「円さん……」
試読終わり。本編に続く。