タイトル「CinnamonTime」-3

 独りぼっちで退屈な時間が過ぎて、いよいよ陣さんと一緒に出掛ける時がきた。
 彼は明るいベージュのジャケットに、緑っぽい柄物のシャツとヴィンテージジーンズと言うスタイルで、テレビで見るのと同じイメージのまま僕の前に現れた。
 僕は、昨日とほとんど同じだけど…。
「今日は昨日のマネージャーさんとか、いないんですか?」
「ああっ…と、とりあええずマネージャーとは現地で落ち合うんだけどね。気になる?」
「ぇ……?」
「いや。こうして二人で車に乗ってると、今からデートとかに出掛けるみたいな感じしないかなって思って」
「……男二人でですか?」
「知らないのかい? 芸能界じゃ性別関係ないんだよ? フィーリングが問題なだけ」
「……そんなの聞いたことないです。いくら僕が芸能界に疎いからって…からかうのは止めてください」
「うーん……。あながち嘘でもないんだけど、まっいいか。それより、その調子じゃ理一の本性ちょっとは見れたみたいだね」
「ぇ……ええ、まぁ…」
「あいつさ、一見やり手のエリートみたいに見えるだろ? だけど家じゃ飯ひとつ作れない哀れな奴でさ、おまけに酒もそんなに強くない。ホントはね、あんな格好してなくても十分役者でやってける…と、俺は思うんだけど。あいつは、俺を売り出すために事務所作ったようなモンなんだ。悪いことしたと思ってる」
「陣さんを売り出す……ですか? だって陣さんもう十分軌道に乗ってるって言うか……仕事なんて黙ってても入ってくるでしょ?」
「まあね。近ごろじゃ仕事も選べるようになったし、いい身分になったと思うよ。ただそれも永遠に続くわけじゃない。俺は、それも分かってるつもりだ」
 陣さんは真剣な顔でそう言い放った。
 確かにな…。言われてみれば芸能界なんて画面に出てなきゃ、あっと言う間に忘れ去られてしまう。
 そこが怖くもあり、魅力的でもあるんだろうけど……。
 携わってる人間でもないし、かじっている人間でもないから迂闊なことは言えやしないけど、陣さんからは明らかに生半可な気持ちでやってるんじゃないってのが伝わってきた。
 だから彼ってカッコいいのかもしれないけど……。
 助手席に座りながら彼らの繋がりの深さに感心してしまったけれど、それなら陣さんは昨日の答えを知っている可能性だってある。
「あ、あの……。昨日、万田さんとテレビ局行った時に、違う事務所の女の人が僕にウチに来ないかって声をかけてきて…。万田さんが断ったんですけど、その時あの人、理一さんは『今そんな悠長なこと言ってられる時じゃないはずなのに』って言ってたんですけど、それって何だか分かりますか?」
「……分かるよ。それは、たぶん俺のせいなんだ」
「ぇ…?」
「俺、あいつが事務所作った時、移籍してるんだ。その時の違約金じゃないかな」
「いやくきん……?」
「タレントって言うのはね、普通事務所と契約して、それを更新していくのが一般的なんだ」
「そうなんですか……」
「その契約を途中で放り出して理一の事務所に移ることになっちまったから、俺を請け負う事務所は相手方の事務所に多大な違約金を払わなければならない。運悪く俺、売れてきちゃったから、違約金もデカくなっちゃってね」
「……どうしてわざわざ理一さんの事務所に移ろうとしたんですか? 別に契約が切れるまでいたって…」
「俺もそのつもりだった。後一年半だったしね。だけど、あいつがどうしてもって譲らなかったんだ」
「それだけの価値があるってこと…ですか?」
「じゃないと思う」
「じゃあ…」
「前の事務所って言うのが、あまりいい事務所じゃなかったからね。契約満了までいたら旬が過ぎてしまうって言うんだ。今、俺は仕事選ばせてもらえる立場になったけど、前の事務所にあのままいたら、そうはなってなかったと思う。来た仕事を順番にこなして行くしかなかっただろうね」
「……」
「それでも成功すればいいんだけど、そういうのって成功率低いんだ。少し名が売れて来れば、俳優にはイメージってモンが付き物になる。そのイメージを壊しかねない仕事も引き受けなきゃならなくて、それが命取りになる可能性が大きい。理一はそれを見越して俺を無理やり引き抜いたんだ。いくら優秀な大手事務所のマネージャーでも、この世界で引き抜きは、ご法度だからね。今までいた事務所に迷惑がかからないように、独立って形で事務所を設立したんだけど、やっぱ風当たりは強いんだ」
「風…当たり…って……陣さんも……?」
「いや。『俺に』ってよりも『事務所に』ってほうが大きいんじゃないかな。直接売り物に悪さをしてくる奴はいないけど、間接的にしかけてくる連中もいる。あっ、でも昨日万田さんに話しかけてきた人は、たぶん違うと思うけどね」
「あの人って…理一さんとは、どういう関係の人なんですか?」
「あの人?」
「ええ。違う事務所の社長だって話は、万田さんから聞いてるんですけど…」
「昔の女」
「えッ……!」
「ってね、嘘」
「もぅ〜! 陣さんッ! 冗談やめてくださいよッ! びっくりするじゃないですか」
「はははッ…悪い悪い。彼女はね、理一と同じ立場の人」
「同じ立場…?」
「そう。やっぱ彼女もライムプロからの独立組なんだ」
「へぇ……」
「たぶん彼女は、理一のこと心配してるんだと思う。『彼にしては、随分ご大層なことをやって退けたな』って感じで見てると思うから。それだけ理一は、危ない橋は渡らないタイプだったはずなんだ。それを俺のために……」
 そこまで言うと、陣さんは思い詰めたように口を噤んだ。
「陣さん……」
「……何だか湿気った話になっちゃったな。ごめん」
「いえ……」
 笑顔で彼は言ったけれど、僕はまともな返事すら出来なかった。
 母さんの言ってた手伝ってやれって、こういうことだったのか……。
 たぶん直接理一さんに聞いたら、絶対話してくれなかっただろう……。
 それを陣さんから聞くことが出来て、ラッキーだったけど……正直ショックだった。
 僕は……僕だったらそれ、決断出来るだろうか……。
 危ない橋は渡らないタイプだと言う点では、僕と理一さんは似ている。
 だけどそれを強行突破するような勢いで押し進めた事務所設立って……。
「理一さんにとって陣さんって、それだけ大切な存在なんですね」
「馬鹿、違うよ。それだけ俺が危なっかしく見えてるだけだろ。それよりさ、このこと聞いたってあいつに言うなよ。別に誰に知られたっていいんだけど、偽善者ぶってるとか見られるのあいつ嫌いだから」
「分かりました」
 兄弟ってこんなモンだろうか…。
 今まで一人っ子として育ってきた僕には分からないことだらけだったけど、彼らだって他に兄弟はいないはず。
 だしとたら僕も…もっと親しくなれば、彼らの仲間入りが出来るんじゃないか…なんて小さな期待が湧いてしまう。
 僕はここに来た意味がようやくちょっと分かったような気がした。


 車で目的のスタジオまで行くと、一階のガラス張りになっているところに万田さんが見えた。
「あれ……?」
「あれ? 万田さんじゃん」
 二人してマジマジと佇んでいる万田さんを見つめてしまったけれど、陣さんは車を駐車しながら口の端を緩ませていた。
「きっと地史が俺にくっついて行くって言うんで、わざわざ万田さんを寄越したんじゃないかな」
「ぇ…何で……?」
「まっ、それだけ地史のことが心配なんじゃないの? まったく……あいつって変なところで健気だろ?」
 とうとう笑いをこらえられなくなった陣さんは、声をあげて笑い出した。
「僕って、ウロウロするとそんなに心配な奴なんでしょうか……」
 ガックリしながら言うと、彼は「そうじゃないさ」と返事を返してきた。
「言っただろ、あいつはただ地史のことが心配なだけなんだよ。変な奴に声かけられやしないかってね」
 万田さんが近くにいれば、そんなことをしてくる奴もいないと見越してだろうって陣さんは言ったけれど、僕としては何だか子供扱いされているようでイイ気分ではなかった。
「さっ、降りて」
「……はい」
 理一さんって僕のことどう思ってるんだろう。
 何も知らないお馬鹿な奴だと思ってるのかな。
 口を尖らせて駐車場からエレベーターまで歩いて行く。
 先に立って歩いていた陣さんが、エレベーターのボタンを押してから僕を振り向いて指で鼻の頭を弾いてきた。
「ゃ……」
 何……?!
「お前ってさ、そういうところが子供っぽいって見られるんだぞ。いい加減にもっと自分を見つめてみろよ」
「見つめるって……僕はただ…」
「この世界、画面に見えてるのなんてほんの一部でしかないんだぞ。その裏じゃドロドロの駆け引きとかアリアリだし。万田さんみたいに優秀なマネージャーが近くにいないと、ちょっとスタジオの隅に連れて行かれて、あーんなことや、こーんなことされたりするんだぞ」
「ぇ………!」
 って、それどういうことをされるって言うんだよ……。
 聞いてみたいけど、聞くのがとても怖い。
 あんなことや、こんなことって……一体何なんだろう……。
 思わず顔を引きつらせて陣さんを見てしまったけれど、言った本人は吹き出しそうな顔を我慢しているのが見え見えだった。
「陣さんッ! 僕のことからかって遊んでるでしょ!」
「あっ、分かった?」
 カラカラッと笑われて、もっと口を尖らせてしまう。
 でも陣さんはひとしきり笑うと、真顔になって顔を突き合わせてきた。
「でも、あながち冗談でもないんだぜ。地史は可愛いからな、十分気を付けろよ」
 エレベーターのドアがゆっくりと開き、中に陣さんが入って行く。
「地史、早く入れよ」
「あ、はい」
 言われて慌ててエレベーターに乗り込んだけど、あながち、あながちって……。
 陣さんの言ってること、どれが本当で、どれが嘘だか分からないよ……。


 スタジオでのインタビューは雑誌の取材で、写真を撮影しながらインタビューを受けると言う形だった。
 それを輪の外から万田さんと一緒になって見守る。
 ライトの中に映し出される彼は本当にカッコ良くて、僕が画面で見ていた彼そのものだった。
「陣さんってカッコいいだけじゃなくて、いい人ですよね」
「ああ。人柄が顔に出てるって言うか、曲がったことが嫌いな人なんだよな。世間へのイメージもその通り伝わってるから、こちらとしては安心してるけどね」
「でも陣さん、僕には意地悪なんですよ」
「何かあったの?」
「だって気を付けないと、スタジオの隅に連れて行かれて何かされるとか」
「え……」
 からかわれたって言うのを言いたかったのに、それを聞いた万田さんは顔を強ばらせた。「万田さん……?」
「秘密だけどね、事実それはあるんだよ」
「ぇ……」
 万田さんは顔を曇らせながら手で口を覆って小声で話しだした。
「昨日会った望月君、覚えてるよね」
「ぇ…ええ……」
「彼…被害に会ってるんだ。だから陣君も警戒してるんじゃないのかな」
「ひ、被害って……一体どんな……」
「僕の口からは……。とにかくあまり一人でウロウロしないでね。スタジオにはどんな奴が入り込んでるか分からないんだから…」
 神妙な顔付きで言われると、僕にまでそれが伝わってしまう。
 それって……。えッ……だって望月君、男なのに………?
 まさか、まさか…って思いだけが僕の中に募る。
 同時に陣さんが運転しながら言ってたことも、本当は「あながち」じゃなかったんだ…と思い知らされた。
 そして理一さんが万田さんを寄越したのも…。
「芸能界って……本当に危ないところなんですね……」
「そうでもないんだけど、用心は必要だってことさ。特に地史君や望月君みたいに可愛らしいコはね」
「………」
 可愛らしいってのは、望月君はともかく僕には余分だと思うけど。
 聞いてみると、こういう世界って色んな人が出入りしてるから、「だろうな」ってつもりで話してても、実はその子会社の人だったりすることが往々にしてあると言う話だった。
「だからね、食事に誘われたり、名刺をもらったりしても、迂闊にこちらから接触しないこと。そういうことは事務所を通してくださいって言ったほうがいいんだよ」
「…はい……」


 色々な注意事項を聞かされている間に、陣さんの撮影とインタビューは終わっていた。 無造作に髪を掻き上げながら僕らのほうに歩いて来る彼。
 いかにも「こいつら何話してたんだ?」と言う顔つきだ。
「お疲れさま」
「お疲れ。お前ら、俺が一生懸命仕事してる時に、やけに楽しそうに話してたじゃないか」「そうですか?」
「そうだよ。何話してたんだよ」
「大したことじゃないですよ。ただの世間話です」
「……って、地史……朝、首にそんなんあったっけ……?」
「首……?」
 言われても何のことだか分からずに指を這わせる。
 すると陣さんが「それだよ」と近づきながらそこを触ってきた。
「この赤いのだよ」
「ああ…。なんか虫にさされたみたいなんです」
「虫……?」
「だと思うんですけど……」
 自分じゃ見えないんだけど、こういう時ってどうにかして見ようとしちゃうもんなんだよね。
 だけど陣さんは肩方の眉を吊り上げて、マジマジと首の赤い跡を触ってきた。
「これ…虫かな……。万田さんどう思う?」
「そうですねぇ……」
「ぇ………」
 そんなに大したことじゃないのに、みんなに見られるのって気恥ずかしいんですけど…。 思わず咳払いしたくなっちゃう行為に、対するみんなは真剣な眼差しだった。
「これって……虫……?」
「虫……って言うより……」
 陣さんと万田さんは、顔を合わせて口を噤んだ。
「……?」
「地史」
「はい……?」
「お前…何か…誰かに嫌なことされた覚えとか、ないか?」
「誰かに嫌なことって……?」
「……いや。ないんなら、いいんだけど……」
 ちょっと言いにくそうに出された言葉に首を傾げてしまう。
 たとえば、それって何……? って聞いてみたいけど、状況がそれを許してくれなかった。
「えっと……陣君、次の仕事行きますか」
「ぁ…ああ……」
「これからは、僕の車で移動しますからね」
「ちぇッ…」
 よくよく聞くと、仕事に行く時には自分の車はあまり使わない。
 つまりは自分で運転しないほうがいいと言うことだった。
 それと言うのも、昨今色々な不祥事を芸能人が起こしているから、十把一からげにされないようにとの万田さんの心遣いだった。
 それで場の雰囲気が一気に変わって、僕たちは駐車場に移動したんだけど、陣さんの顔はパッとしないし、万田さんの顔も少し強ばってるように見えた。
 気のせい…かな……。
「で、じゃあ俺の車はどうするんだよ」
「誰かに取りに来てもらうか、最終的にここまで戻って来るか、ですね。どちらがいいですか?」
「終わる時間にもよるだろうけど……」
「そんなに遅くはならないと思いますが、午後八時くらいを予定しておけばいいんじゃないですか?」
「じゃあ戻る。俺の車だから俺が乗って帰りたいし。……地史は…どうする? 最後まで俺についてくる?」
「……邪魔でないのなら……」
 でないと、帰り道が分からないし…。
「じゃ、決まり」
「それでは出発しましょうか。次はFスタジオで雑誌のグラビア撮影ですよ」
「グ、グラビア……?」
 思わず口走ってしまったけれど、それを隣で聞いていた陣さんの口が急にニタッと笑った。
「お前、今良からぬことを想像しただろう」
「ぇ……そ…んなことないですよ」
「いや、グラビアと聞いて水着のねえちゃんを想像したはずだ」
「ぅ……うーん……」
 間違いではないけれど、僕は陣さんが水着姿になるのかってギョッとしてしまっただけだ。
 だけどそれを言うと、また馬鹿にされるに決まってるから口をつぐむ。
 でも心の中では、やっぱりさっきの二人の神妙な顔付きは僕の勘違いだったんだな…って安心感も出たりして…。ちょっと気が楽になっていた。
「やっぱり、お前も男なんだなぁ。他の箱で撮ってるかもしれないから、スタジオ行ったら聞いてみてやるよ」
「ぃ……いいですよッ! そんなことッ!!」
「いいから遠慮するな。万田さんと一緒に見学して来いって。ただし、見てて勃起するなよ。スタッフに馬鹿にされるぞ」
「陣さんッ……!」
 はははッと笑いながら車に乗り込む。
 二人して後部座席に乗ったから、彼の膝が勢いで僕の足に当たってドキッとしてしまった。
 陣さんの足……当たってる……。
 退かしてとも言えず、かと言って自分から足をずらすのはいけないような気がして顔がどんどん赤くなる。
 どさくさまぎれに頬を押さえた僕は、俯きながらどうしてこんなに動揺しているのかが分からずに困ってしまった。
 彼の体温が足から伝わってくる。
 肩を抱かれても意識なんてしなかったのに……。どうして……?
 僕がこんなに動揺してるのに相手は全然気にしてない。
 自分だけ完全に意識しちゃってるのって、かなり恥ずかしい。
 だらりと足を広げて、腰を前にずらすように浅く座り込んでいる陣さんの股間が俯いた視界に入ってしまい、僕はさっとそっぽを向いた。
 あー、なんか完全におかしい……。
 陣さんが『水着のねぇちゃん』なんて言うからかな……。
 とにかく今まで生でそんなの見たことなかったから、すごく意識してるのかもしれない。
 僕は「絶対にそうだ!」と思い込むようにして、窓の外を必死になって眺めていた。
 それにしても、なんかなぁ……。


 Fスタジオでは、水着のねえちゃんの撮影はあいにくなかった。
 それから救われたと思ったら、気が楽になって陣さんとも別にどうってことなく話せるようになった。
 やっぱ意識するのって怖いよね。特に水着のねぇちゃんと陣さんなんて何の接点もないのにさッ。
 スタジオについて一時間ほどで撮影は済んでいた。
 入れ替わり立ち代わり、着せ替え人形みたいになってる陣さんを見るのもなかなか面白いものだな…なんて隅っこでパイプ椅子に座りながら思ったけど、途中で突然「一緒に撮ってあげようか?」と聞かれた時には、さすがに固まってしまった。
 隣にいた万田さんが失礼のないように断ってくれたけど、そんなに安直に僕なんて撮影されていいわけ? とか考えてしまったんだ。
「スタジオの中に入れるコなんて、一般人じゃないって見なされてるからね。それは仕方ないんだよ」
 万田さんは言ったけど、びっくりした僕は声をかけてきた男の人の後ろ姿を凝視するばかりだった……。

「陣さんッ、万田さんッ」
「あれ、なんだよー。もう少し早く来れば一緒に撮ってもらったのにー」
 撮影が済んで次の現場に行こうとした時、制服姿の望月君がスタジオに駆けつけて来た。 あれ? 制服…?
「今日って学校ありましたっけ……」
「ああ。僕は休みが多くて単位が取れてないから、補修授業だよ」
「へぇ…」
「それより何、今日はお前のほう仕事ないのかよ」
「うん。今は補修しておかないといけないから、ほとんど入れてないんだ。ね、万田さん」「そうだね。無事に進級してもらわないといけないからね」
「じゃあ一緒についてくるか」
「そのつもりで来たんだけど」
 二人を見ているとすごく仲が良さそうなので、間に割って入るのがためらわれちゃう雰囲気がした。
 共通の話題らしい話題もないから、何を話したらいいのか困っていると、万田さんが口を挟んできた。
「行きますよ、みなさん」
「はいはい」
「まるでグループみたいだよね」
 嬉しそうにカバンを胸に抱いた望月君が喋り出す。
 いつの間にか望月君の横には陣さんがいて、僕は万田さんと並んで歩きだしていた。
 何だか望月君が来ただけで、パッと場の雰囲気が変わってしまったって言うか……。
 何か違うんだよな……。
 それが何なのか分からないまま車に乗り込む。
 今度は助手席に座った。
 そしてすぐ近くにあると言う最後のスタジオまで着くと、万田さんは駐車場に車を入れずに出入り口の前で車を止めた。
「……?」
「陣君、望月君降りてください」
「……万田さんは?」
「一足早く帰らせていただきます」
「ぇ…じゃあ僕は?」
「そうだよ、地史はどうするんだよ」
「私が責任を持って家まで送りますから大丈夫ですよ。予定が変わってしまって申し訳ありませんが、それでいいですか?」
「僕は…構いませんけど……」
 万田さんが急に予定を変更するなんて……。
 変だな…と思いはしたけど、僕がどっちについて行っても、さして問題はない。
「…じゃあ…僕は先に帰ってます」
「いいのか?」
「ええ、気にしないでください」
「でもお前…夕食どうするんだよ」
「私がご一緒しますから大丈夫ですよ」
「……そうか?」
「ええ」
「では。この後撮影が終わるのを見計らって、誰かに来てもらうように連絡しておきます」
「ああ」
 ドアが開いて、二人がスタジオの中まで入って行くのを見届けてから、万田さんは車を発進させた。
「どうもすみません」
「どうしたんですか?」
「……あの二人を見ていて分かりませんでしたか?」
「……何が…ですか?」
「ふふふッ……分からなければいいんですよ」
 意味深な笑いをする万田さんに僕は首を傾げるばかりだったけど、彼はそれ以上教えてくれようとはしなかった。





「ぁ…お帰りなさい……」
「ただいま」
 万田さんと外で食事をして、それから家に送ってもらった。
 食事中にも万田さんにそれとなく二人のことを聞いてみたんだけど、さすがに口が堅いって言うか……ホントに何も教えてくれなかったんだよね。なーんか面白くない……。
 ……理一さんなら知ってるんだろうな……。
 聞いてみようか……。
 思ったけど、人のことをあれこれ聞くのっていいことなんだろうか…と考えてしまい、僕は開きかけた口を綴じていた。
「今日は、一日楽しかったか?」
「ええ…まぁ、それなりに……」
「なんだ、元気がないな」
「そ…んなことないですよ」
「そうか?」
 ネクタイを緩めながら眼鏡の奥の瞳が細まる。
 理一さんは今日は酔ってなくて、キッチンへ行くとミネラルウォーターを手に戻ってきた。
「明日は何か買いに行こうか」
「ぇ…何かって……?」
「日用品とか色々。地史君の好みってものがあるだろうから特別に揃えてないしね、いいんじゃないのかな」
「明日…?」
「ああ。久しぶりに休みを取ったからゆっくりしよう」
「………はぃ……」
 僕のために……わざわざ理一さんが休みを取ってくれたってこと……?
 それを聞いただけで単純に嬉しさが込み上げてくる。
 僕は顔が緩んでしまうのを押さえるために、わざと俯いていた。
 だってこんな顔見られたら恥ずかしいじゃないか…。
「夕食は万田ともう食べて来てるんだよな?」
「はい」
「じゃあ明日、朝十時頃に出掛けようか。私は何が必要か分からないから、書き出しておきなさい」
「分かりました」
 理一さんも外で食事を取って来たのかな。
 何も取らずにペットボトルを持ったまま自室に足を向ける。
「あ、あの…お風呂とかは……?」
「ああ、好きな時間に入っていいよ。お湯は残しておかなくていいから」
「ぁ…はぃ……」
 何だかさっき嬉しがったのが嘘のように、彼の態度が素っ気ない気がする。
 もしかして疲れてるのかな……。
 今日はたまたま早く帰って来たけど、ホントは昨日と同じ時間に帰って来るのが当たり前だったりして……。
 そう思うと急に彼の背中が小さく見えてしまった。
 キッチンの奥にある廊下に入って行くとパタンッとドアが閉まる音がする。
 僕は座っていたソファーにゴロンと横になって天井を見つめた。
「負担になってたらどうしよう……」
 肝心なことは全然本人に聞けてない僕って……。
 情けないと思ったけど、どうしても頭の片隅に嫌われたくないってのがある。
 せっかく兄弟って分かったんだから嫌われたくない。
 だからなるべく理一さんの邪魔にならないようにしようと努めてるのに……。
「でも疲れる……」
 何もやることがなくて、退屈すぎるから余計なことを考えてしまうんだ。
 そう勝手に決め込んでソファーから立ち上がると、背伸びをして浴室に向かった。
「さっさと風呂に入っちゃおっと…」
 浴室に向かう途中で自分の部屋から着替えを持ってくる。
 僕の部屋と水回りは近い位置にあって、よく考えてみれば理一さんの部屋とは一番遠い位置にあった。
 そういう点でも理一さんは自分の生活を邪魔されたくないから、僕の部屋をここに割り当てたのかなと思ってみたりして。
 まっ、何してもあんまり伝わらないだろうしね…。
 事あるごとに悪いほうに考えれば、キリがないほど思い当たる。
 こんなことばかり考えてると落ち込んでしまいそうなので、彼が誘ってくれたことだけを考えて嬉しがろう!
 それに、陣さんと一緒じゃなくて理一さんが自分の家に僕を住まわせてくれるって決めたんだから。
 そう考えると、お調子者の僕はちょっと心が軽くなって足取りも軽くなる。
 バスタブに湯を入れながら洋服を脱ぐと洗い籠の中に放り込む。
 浴室に入ると、もう湯気が立ちのぼっていて喉が潤った。
 ちょうどいい温度に設定するとシャワーに切り替えて、まず全身を洗いにかかる。
「んーっと……」
 並んでいるポンプの中から、ボディソープをチョイスするとスポンジに出して泡を立てる。
 よく泡立ってから体に這わせて、全身を泡だらけにするのって好きなんだよな…。
 ゴシゴシと全身を洗ってから、泡を洋服みたいに引っ付けてちょっと遊ぶ。
 シャワーのお湯が邪魔になってヘッドをバスタブにお湯が入るように向けた。
 ザーザーと勢いよくお湯が音を立てる。
 必死でそんなことをやっていると、思わず鼻歌が出てしまっているのに自分で気づいてみたりして……。
「ばかだな」
 クスッと笑った時、洗面所のほうでガタンッと音がした気がした。
「ぇッ…なに……?!」
 ビックリして磨りガラスの向こうを見てみたけれど、何も変化はない。
 それからドスドスと足音が伝わってきた。
 陣さん……かな……。
 それにしてもあの足音…。何かあったのかな……。
 気になって、急いでシャワーで体についた泡を洗い流す。
 湯船には、まだほとんどお湯らしいお湯はたまってなかったけれど、しゃがみ込みながらシャワーのヘッドを持ってバスタブに入った。
 体にシャワーを浴びせながら丸まるように体を暖める。
 腰のあたりまであったお湯で下半身はどうにか暖まったけれど、上半身はシャワーで暖めるしかない。
「寒…くはないんだけど……。落ち着かないな……」
 それでも何があったのか知りたくて、僕は十分に体を暖めるためにシャワー片手に浅瀬に浸かるように体を伸ばした。
「なんか…超カッコ悪いんですけど……」
 こんな姿、間違っても誰かに見られたくないな……。
 自分で自分を笑ってしまいそうになるポーズに、正直萎える……。
 僕はひとしきりそんな格好をしてから、今度は溜まってきたお湯に溺れそうになって慌ててお風呂を出た。
 洗面所で服を着ながら部屋の外に耳を立ててみる。
 だけど外からは何も聞こえてこなかった。
 理一さんの部屋にでも行ったのかな……。
 パジャマ代わりにしているスェットを着込むと、自分の部屋じゃなくてリビングに行ってみた。
 いない……。
 だとしたら、やっぱり理一さんのところなんだな……って、諦めて自分の部屋に戻ろうかと思ったら、何だか遠くのほうで怒鳴ってるような声がしているのが聞こえた。
 理一さんの部屋から……?
 内容までは聞こえやしないんだけど、怒鳴ってるんだからいい雰囲気じゃないことは当然分かる。
 僕は止めに入ったほうがいいかどうか迷ったけど、知ってしまった以上、やっぱりケンカはいけないから急いで理一さんの部屋に向かった。
 けど。
「じゃ、分かったなッ」
「…ああ……」
 今まで怒鳴ってたはずの陣さんが、いきなり部屋から出てきた。
「お…っと」
「じ、陣さんッ……。どうしたんですか?」
「ぇ…何が?」
 陣さんはさっきまで怒鳴ってたのが嘘のように、僕を見るとにっこりと微笑んでリビングに向かって歩きだした。
 何だか中途半端な感じが拭えないまま、さっさと歩いて行ってしまう陣さんの後を追いかける。
「陣さん!」
「何?」
「何があったんですか?」
「何も」
「何もって……」
 何もないはずないじゃないか……。
 陣さんはいつもと変わらない態度を取ってるつもりだろうけど、やっぱり違うよ。
 理一さんとケンカするようなことって…。
「仕事のこと…ですか?」
「仕事? ……うん、まぁそうかな」
「……」
 じゃないみたい……。
「腹減ってない?」
「ぇ……?」
「俺の部屋に来ないか?」
「……いいですけど……」
 ついて行けば何か分かるかもしれない。
 単純にそう思ってしまったから、陣さんの誘いに乗った。
 彼は仕事から帰ってきたばかりで、直接ここに来たみたいだ。
 隣の部屋のカギを開けると、真っ暗な部屋の電気を点けながら室内に入って行った。
 おとなしく後ろからついて行く僕は、二人のケンカの理由が自分じゃないといいな…なんて考えていた。
「地史は、何か軽い物なら食べれる?」
「ええ。でも…わざわざ作るのなら別にいいですけど……」
「って言うか。一人で食事するのって、あんまり好きじゃないわけよ。だから一緒にテーブルについて欲しいだけ。別に作るのは手間じゃないんだ」
「…なら、いただきます」
「じゃあ、デザートでも作ろうか」
 明るく笑う陣さんを見ていると心が和む。
 まるでさっき聞こえた怒鳴り声が嘘のようだ。
「あの…さっき聞こえたのって……本当は仕事のことじゃないんでしょ?」
「なんで?」
「……なんとなく……」
「……そんなことないよ。とにかく地史は気にしなくていいから」
「でも」
「地史とは関係ないことだから」
「………」
 胸に何かがグサッと刺さったような感じかした。
 関係ない…か……。
 心の中で繰り返してみると、何だかひとりだけ半端者にされているような気がして疎外感に涙が出そうになる。
 だけど陣さんは僕のそんな気持ちに気づくことなく、キッチンの中で食事の支度に勤しんでいた。
「心配しちゃ…駄目ですか……?」
「え……?」
「………」
 僕の泣きそうな声に、驚いた彼が顔をあげた。
 だけど僕はこれ以上声を出せば本当に泣いてしまいそうで、俯いたまま唇を噛み締めていた。
「地史…?」
「……何でも…ないです。……僕……やっぱり帰りますッ……!」
 ガタンッと音を立てて、椅子を後ろに倒してしまいそうになりながら僕は必死でキッチンを後にした。
「ちょッ…! 地史……?! どうしたんだよ…!」
 後ろで陣さんの声が聞こえたけど、足を止めることなんて出来やしない。
 僕は靴を履くのももどかしく、彼の部屋を出ると理一さんの部屋に急いだ。
 バタンッと勢いよく玄関のドアを閉めて、ドアチェーンまでして自分の部屋に逃げ込んだ。
 そのままベッドに潜り込んで丸まりながら、出てきてしまいそうになる涙をこらえていた。
 僕より一歩遅れて玄関をノックする音がする。
「地史……?! 地史……!」
 陣さんが僕の名前を何度も呼んでいる。
 追いかけてきてくれたんだろうけど、今は出る気になれない。
 こんな泣きそうな顔、誰にも見れせやしないじゃないか…。
「地史……!」
 しばらくして諦めたのか、陣さんの声はしなくなった。
 どうして、こうなんだろう……。
 別に普段ならどうってことない言葉に、過敏に反応してしまっている自分に気づいている。
 だけど自分だけ蚊帳の外に置かれた孤独感って言うのは、どうしても消えやしない。
 悲しい……。
 そう僕は悲しいんだ……。
 僕だけまだ誰にも認められていない。
 それが悲しいんじゃないだろうか……。
 分析してみるけど、結局答えの出る前に僕は泣きながら眠りについていた。
 そして……。