タイトル「はい、チュウ」

 夏休みが終わって学校が始まった。三月幾早(みつき いくさ)は、ちょっと心ウキウキぎみに階段を駆け上がっていた。
「おっはよ!」
「ああ、ミツキおはよ」
「おはよぅ。何、何だか機嫌いいんじゃない?」
「へへへ…分かる?」
「そりゃ、それだけニタつかれてちゃね……」
 教室に行き着き自分の席に座ってもそのニタニタが止まらない。
と言うのもこの夏、三月はかねてより好きだった楠木仙(くすき せん)と思いが通じて幸せいっぱいなのだ。
 彼は三月と同じ高校一年生。同じクラスだが、それまで全然知らない同士だった。たまたま同じ学校に受かり、同じクラスになり、隣の席になっただけの同級生だ。
同じくらいの背格好に同じくらいの髪の長さ。もちろん同じ制服だし、目の色だって厳密には違うかもしれないが、パッと見は同じ茶色がかった黒だった。
 ここまで同じでも現実は全然違う。彼のほうが大人っぽいし、彼のほうが優しそうだし、彼のほうがカッコイイ。
「ふふふっ……」
 ほお杖をついてニタついていると、回りにいた奴らに気味悪がられる。そんなことも考えられないほど今の三月はのぼせ上がっていた。
「おはよう」
「っはよ」
「おお、久しぶりぃ。元気だったかぁ?」
「ぅ、うん…」
 肩をバシッと叩かれて席についたのは三月の好きな楠木だった。
目を合わせると自然にお互い口元を緩める。小首を傾げるようにして笑みを作られると、三月は天にも昇る気持ちになれた。
「おはよう」
「…はよぅ……」
 ちゃんと挨拶をされてもうまく返せていない。声まで上ずってしまいそうになるから極力顔だけで済ませようとしているのだが、相手はそうでもないらしくてカバンから宿題のプリントを出しながらその内の一枚を差し出してきた。
「ぇ……?」
「……これ……。この間置いて行っちゃったみたいだから、字を似せてやっておいたけど大丈夫かな……」
「ぁ…ありがと………」
 プリントを受け取りながら中身を見てみると、本当にわざと三月の字に似せて書いてくれてある。顔をあげて相手を見ると、にっこりとほほ笑まれて顔が熱くなった。



 あの日。
 それは宿題にかこつけて無理やり楠木の家に入り込んだ日の出来事だった。
彼の家はマンションで昼間は彼しかいないことを三月は知っていた。だから無理を言って一緒に宿題やろう! なんて上がり込んだ。
 最初は居間に通してもらってペットボトルを手に彼の部屋に。しばらく頑張ってプリントとかやっていたのだが、どうしても我慢出来なくなった三月は手を止めて目の前にいる楠木の手を取った。
「あっ…あ…あのさっ………」
「なに……?」
「お…まえ、俺のこと…どう思ってる?」
「………どう…って……?」
「えっ! え……っと……ほら、と、と、友達だとかさっ! それとはち、違う何か…とかさっ!」
「…………それとは違う何かって?」
 いったい何だろう…と純真無垢な顔をして問われると、罪悪感に苛まれる。
「うっ…! そ、それは……っ………」
「それは?」
「え……っと……………」
「………なに?」
「つ…つまり…俺は………お前のことがちょっと好きで……」
「ちょっと好き……?」
「いや! ちょっとじゃなくて…いっぱい好きって言うか……」
「いっぱい…好き?」
「そ、そうっ! いっぱい好きなんだっ!! 俺、お前のことがいっぱい好きなんだっ!」
「はははっ、へんなの」
「えっ?!」
「だって変だよ、いっぱい好きなんて。とっても好きなら分かるけど…」
「ぇ………そっ、そっちかぃ!」
「え…何が?」
「俺、お前のこと…」
「うん。僕も三月のこと好きだよ」
「えーっ!!」
「もっとも、僕の場合はとっても好きなんだけどね」
 にっこりとほほ笑まれると、こっちの顔が溶けて崩れてしまう。
「あ、でも…………」
「どうしたの?」
「俺の言ってる好きと、お前の言ってる好きって違うと思う………」
「………どう違うんだろう………」
「いや、俺の場合はさっ、あんなことやこんなことがしたい願望がある好きなわけで……」
 それ以上過激なことが言えなくて、ボリボリと頭をかいた三月は俯いて顔を上げられなかった。でも相手は三月の太ももに手を置くと俯く顔を覗き込んでほほ笑んできた。
「たぶん同じだよ?」
「ぇ?!」
「たぶん僕たちの考えていることは一致してる。って言っても、それから先なんてどうしたらいいのか分かっちゃいないんだけど…」
「ぁ…………」
 あまりに相手の顔が近すぎてどうしていいのか分からない。三月はのけ反るように後ずさると楠木から逃げていた。だけど彼の少し寂しそうな顔を見てしまうと、思わず「ごめんっ」と口にする。
「三月は…どうなの?」
「な…何が?!」
「どうするか知ってる?」
「ぇ……っと………」
 そのくらい事前調査してる。だけどそれを言葉にするのは難しかった。だいたい相手がしどけない仕草をしているように見えてしまう時点で終わってるじゃないか。
 俺って………。
「ぅ………」
「あ……………鼻血出てる………」
 言われて慌てて鼻を押さえると楠木がティッシュを箱ごと渡してきた。
「これ」
「ごめんっ…」
 手渡されたティッシュを引き抜くと鼻にあてて、ちょっと情けなさげに相手を見つめてみる。だけど楠木はそんな三月をただ心配そうに見つめるばかりだった。
「大丈夫?」
「ぅ…ぅん……」
「ちょっとそこで横になりなよ」
「うん………」
 こればかりは仕方ない。三月は床に仰向けになると天井を見上げていた。向かいに座っていた楠木はクルリと回り込むと三月の横までやってきて上から顔を覗かせた。
「あのさ……」
「?」
「鼻血出るのって欲求不満ってヤツなの?」
「ぇ………?」
「って、どこかで読んだ記憶があるから……」
「さ、さぁ………」
 それには直接「そうだよっ!」とは答えにくい。
 はははっと空笑いをした三月は彼から目をそらすと小さくため息をついた。
 俺って………質の悪い鉄砲玉タイプだったりして…………。
 すっかり落胆だ。でもちょっとはいいことだってある。それはどうも相手も同じ気持ちだ、と言うことが分かったからだ。それに関してはヘラッと顔がとろけてしまいそうになる。
「ぁ、鼻血がにじんできた」
「ぁ………あー…………」
 またティッシュを引き抜いて取り替えると、視界の中に楠木を入れながら天井を眺める。
 俺って………。
「なぁ、楠木………」
「なに?」
「血が止まったらさ、とりあえず抱き締めていいか?」
「ぇ………ぃ…いいけど………………」
 とたんに相手の顔が真っ赤になる。
 楠木って純情なのかな………。
 そんなことを頭の片隅で考えてニヤつくと今度は目を綴じた。
「三月?」
「早く血が止まるように、ちょっと心を落ち着かせるよ」
「そっか………。じゃあ僕は別の部屋にいるよ。落ち着いたら呼んで」
「ああ」
「じゃ」
 早々に立ち上がると部屋を後にする楠木に「悪いな…」とは思ったが、やっぱりこればかりは早く血を止めることが先決だ。三月は努めて冷静に平常心を保とうと努力した。

 それが収まったのは時計の長いほうの針がくるりと一回転した時くらいだった。
「何やってんだよ、俺」
 やっと落ち着いた三月は使ったティッシュをひとまとめにするとゴミ箱に捨てて立ち上がった。
「やるぞっ」
 鼻息荒く楠木の元まで急ぐ。彼はリビングのソファーでうたた寝をしていた。昼下がりの日差しが彼の体を照らして後光のように輝いている。その光に触れようと知らず知らずの内に手を伸ばして彼に触れている。
「ぅ……ん……………」
「……」
 楠木…………。
 三月は顔にかかっている髪をあげてやりながら、指先でその頬に触れた。顔を近づけていくと彼の匂いがしてもう少し近くに寄りたくなる。そんなことを思っていると手は勝手に彼の頭を抱き抱き、その髪に頬を擦り寄せていた。
「ちょっ、ぇ…?」
「あっ、ごめんっ!」
 戸惑う相手に抱いた三月も戸惑い慌てた。バッと相手を放すと一歩後ろに引いて尻餅をつく。互いに見つめ合った二人はどちらからともなく笑い出していた。
「ごめん…」
「こっちこそ、ごめん。楠木キラキラ光ってたから…何か……触ってみたくなった」
「ぇ…ああ、西日かな。どうりで暑いはずだよね」
 楠木は立ち上がるとレースのカーテンが引かれている窓に重ねて普通のカーテンも引いた。これで光も鈍くなるが暑さも収まる。楠木は床に座り込んでいる三月を通り過ぎるとキッチンに行きコップに水をくんだ。
「三月も飲む?」
「いや、俺はいいよ」
 それを聞いた楠木は独りだけ水を飲むとそそくさと三月の元に戻ってきた。あぐらをかいて薄暗くなった室内を眺めていると、その目の前に楠木が座り込む。ちょっと驚いてしまったが、相手がにっこりと笑っていたので三月も自然に笑顔を作っていた。
「三月は僕のどんなトコが好きなの?」
「ぇっ…………っと……………」
 どんなところだろう。
 聞かれて明確に答えられるだけのものがないのに気づく。それを悟られたくなくて頬を指でかいてヘラッと笑うとキョトンとして首を傾げられた。
「言葉にするほどのことでもない些細なこと、なのかな………」
「いや…ぁ……………って言うか……何て言うか…………」
 全部が好きだとも言えないし、存在が好きだとも言えないし、困ったなぁと思っていると相手の顔が近くなってきているのに気づく。
「え…?」
 チュッと唇に唇を重ねられて、少し開いていた口が一気に綴じた。
「ちょっ! お前っ、何?!」
 思わず口に手を当てて慌ててしまった。
「だって」
「だってじゃねぇだろっ! だってじゃ…」
「じゃあ、もうちょっと」
 今度は首に手を回して唇を重ねてくる楠木にビックリしてしまった三月が固まったまま相手を見る。
「……キスしてる時にさ、目を開いてるのってマナー違反じゃない?」
「ぇ、ぁ…ごめんっ…」
 言われるままに目を綴じると、再びそっと相手の唇が触れてくる。角度を変えて何回もされて、それから遠慮がちに舌が唇を舐めてくる。三月は口を開いて相手の舌に舌を絡めると自分も抱き着いていた。
「んっ…ん……………」
「ん…………」
 相手を床に押し倒しながら着ていたシャツの上から体を弄る。楠木も三月の背中に回した手を腰に回してシャツを引き抜いてくる。
相手の指が素肌に触りビクッと体が反応する。三月もシャツの上から執拗に相手の腋や乳首、くびれから腰にかけてを撫で回した。
「ん…ん…………っ……」
 脚を絡めて体を引き寄せようとしてくる楠木にされるがままになりながら股間を押し付ける。三月はだんだん自分の気持ちも相手の気持ちも高まってきているのを感じ取っていた。
 こ、これから………。
 鼻息荒く相手のズボンに手を伸ばした時、どこかで携帯が鳴っているのに気づいた。
「あれ…?」
「ぁ、僕のだ。待ってて」
 今まで組み敷いていた楠木がスルリと三月の下からいなくなる。
小走りで自室まで行く姿を見送った三月は床にうつ伏せになると大きなため息をついた。
「はぁぁ……誰だよ……………」
 せっかくこれからだって時に……。
 何だか一気に萎えてしまう。
 だけどここで萎えてしまっては先がないじゃないかっ! と思い直した。だが…。

 何分経っても肝心の楠木は帰って来なかった。だから仕方なく立ち上がった三月は掛けの部屋に脚を向けた。
 近づくごとに楠木の話し声が聞こえる。少し空いたドアから顔を覗かせると気づいた楠木が片手で拝んできた。話がなかなか終わらないと言うことらしい。三月はそれに頷くとさっきまでいたリビングに戻ってテレビのスイッチを入れた。
 感じとしては親でも教師でもない。かといって友達と言うわけでもない様子だった。だから余計に切りにくいのかもしれないが……。三月は何だか面白くなくて座っていたソファーに横になるとゴロゴロと寝転がってみた。もちろん口はヘの字口だ。
 ゴロゴロ、ゴロゴロと何度もしていると勢い余って下に落ちる。
ゴトンッ! と凄い音を立てて床に落ちてしまった三月は、それでもゴロゴロと右に左にと動いていた。
「何やってんの?」
「あ…」
 いつから見られていたのか、呆れ顔の楠木を見上げた三月は体裁悪そうに身を起こした。
「遅い…からさっ…………」
「ゴロゴロするんだ」
「………」
「いいよ。別に気にしてない。むしろ見てて面白かったから」
 ソファーに座り直した三月の横に楠木が腰を下ろしてくる。そしてチラチラと三月を気にしてくる仕草は可愛かった。
「あ…のさ…………」
「誰からの電話?」
「ぇ…?」
「何か…切りにくそうだったからさ」
「ああ………。あれ、従兄弟からなんだ」
「従兄弟?」
「うん。…………休み入ってからさ、何かにつけて来ていいかって電話が来るんだ」
「へぇ……」
「でも来てもらっても僕しかいないしね、毎回断ってるんだけどしつこくって…」
「………聞いてもいい?」
「……いいけど……何か変なこと言ったかな、僕」
「その従兄弟って男?」
「ぇ…あ…うん……」
「いい男?」
「…………もしかして疑ってるの?」
「何を?」
「付き合ってるとか」
「ばか。心配してやってるんだろっ!」
「そっか。ごめん………」
 自分がこんなことをしたから他の奴も…などと思ってしまうところが惚れてる阿呆さ加減と言おうか……。三月は分かっているのに口に出さずにはいられなかった。
 思わず聞いてしまったはいいが、まともに相手の顔が見られない。俯いたり違うほうを向いたりして、何とかごまかそうとしたけれど相手にはしっかり伝わっていたみたいだ。
「ありがとぅ」
「何が?」
「心配してくれたんだろ?」
「ぅん、まぁ…何て言うか………さ……」
「気を付けるよ。だから三月も気を付けてね」
「えっ、俺が?!」
「あ、今『自分は大丈夫』なんて思ってただろう。駄目だよ、油断しちゃ」
「わ…分かってるよ、そのくらい……」
 そうは言ったものの、自分では全然そんな自覚はなかったので楠木に言われてギョッとした。
 今って…誰でも狙われる時代なんだ…………。
 ガックリと頭を垂れて軽く笑いたい気持ちになった。
「あ…のさ……」
「ん?」
「…………………す…する……?」
「ぇ………ぁ……」
 忘れてた。ガバッと頭をあげて相手を見ると、今度は楠木のほうがしどろもどろになっている。クスッと口元を緩めた三月は相手の肩に手を置いてこっちを向かせようとして、同時に視界の中に見える時計の時間を見て動きを止めた。
「ヤバイんじゃね?」
「ぇ?」
「ほら、時間。もうすぐ五時になる」
「ぁ……」
 昼間はもちろん誰もいないが、さすがに五時過ぎれば誰がいつ帰って来てもおかしくはない。
「お前の母ちゃん、帰って来るんじゃないか?」
「ぅ…ぅん………」
 自室に入ってしまえば分からないとは言っても、一度萎えてしまった気持ちを戻すのには時間がかかる。お互いに苦笑したまま見つめ合うと手を伸ばして抱き合いながらキスをした。チュッと触れて、またチュッと触れる優しいキスだ。
 しばらくそんなことを繰り返してから名残惜しそうに立ち上がった三月は、今日来たことを後悔していた。
「損したな。うん、損した」
「何言ってんの?」
「ウダウダしてたから言いそびれて、やっと来れたのが今日。もっと休みが始まってすぐに来れば良かった」
「……先は長いから、いいと思うんだけどな」
「…そう思うか?」
「そうなんだろ?」
 ニコッとほほ笑まれて、ヘラッとした笑いがこぼれてしまう。三月は彼の笑顔が間近で見られる幸せを改めて噛み締めたのだった。
 それから新学期が始まるまで数日。
 二人は会うこともなく休みは終わり、皆と同じように教室で顔を
合わせていた。
 急がない。焦らない。疑らない。
 示し合わせたわけじゃないけれど、そんな言葉が互いの口からこぼれ出るようだった。



「これのお礼。ポテト奢ってやるから、今日一緒に帰ろ?」
「……いいよ」
 プリントに目を落としてから顔をあげた三月は、笑顔で彼を誘っていた。そして言われた楠木も笑顔で即答してきた。
 そんな二人は、時々チュッとキスをする。それが出来たら今は満足。これから二人は、ゆっくり進もうとしていた。        
終わり 070913 
タイトル「はい、チュウ」