タイトル「戒めの唇、抗いの指」試読

 友坂憧一(ともさか しょういち)には、ちょうど10歳年が離れた先輩がいた。入社してすぐ、この地方支社に配属されて二年。ずっとこの先輩と組んで仕事をしている。
 彼の名前は氷見野岳(ひみの がく)。年の差なんて見た目からも全然感じさせない、こんな片田舎には珍しいほどのイイ男だ。少し茶色がかった髪を後ろに流し、襟足はきちんとワイシャツに当たるか当たらないか位の長さで整えてある絶妙な長さ。それにスーツのチョイスも勉強になる。細身のスラックスに三つボタンの背広は、それなりの体系の人が着てこそのスーツだと思っていたので、初めて彼を見た時、憧一は思わず顔をそらして一呼吸おいてからまた彼を顧みたものだ。
彼の場合、外見もそうだが性格もいいので客受けももっぱらいい。「地元だからね」と彼は言うが、それはただの謙遜だ。けしてそうではないことくらい、いつも近くにいる憧一が一番分かっていた。

「今日は薪逢市(マキアイシ)を回ろうか」
「ぁ、はい」
 朝一番、社で割り当てられている小さな車に乗り込むとシートベルトを閉めながら岳が話しかけてきた。憧一は運転席でそれに答えながらゆっくりと車を発進させていた。
 彼らの職業は、得意先回りを主とする営業マンだった。何を売っているかと言えば、リネン製品のリースだ。いわゆるベッドのシーツとか枕とかタオルとか。あの手のものを扱う職業はみんなお得意様だったりする。
 普通この種の仕事は、あえて営業職としての社員を確保しない。製品を補充しながら営業をさせるのが普通のなのだが、この憧一と岳のいるLMS社は少し変わっていて営業も置けば開発部もある開拓意欲旺盛な会社でもあった。
 業界トップとか巷では言われているが、社員はそれで満足するはずもなく、日々色々なものに手を伸ばしている。それで出来た新商品の売り込みなども憧一たちの仕事だった。だが本来は得意先の開拓と製品についての意見を聞くのが業務だ。営業とは言っても彼らの仕事は補充部と開発部の間に入る特殊職のような感じだった。
「薪逢市ってもちろん奥から回りますよね?」
「ああ。今日は補充部回ってないからな。まずは薪逢砂山病院から行こうか」
「はい」
 車を走らせながら一番遠くにある薪逢砂山病院を目指す。
「でも…そこって……この間、補充部がクレーム付けられたって言って来たところですよね」
「だから今から詳しいことを聞きに行くんだろ?」
「………だけどなぁ……」
 そこは少し前から違う会社が参入したくて職員にちょっかいを出していると聞いている病院だ。病院は一カ所抑えるだけでも結構な仕事料が確保出来る。そしてそこを拠点に……とも考えられるから誰だって参入はしたいし、こっちはされたくないのが事実だ。
「落ち度付けたいってことですか?」
「どうだかな」
「俺、あそこの事務長好きじゃないです」
「………好き嫌いで仕事選ぶなよ」
「そうですけど。でもあの人の目付きが好きじゃないんです」
「目付き?」
「岳さん、気づいてないんですか? あの舐めるように人を見る目付き。大っ嫌いですっ」
「まあまあ…」
 そんなこと言うなよ。と岳がたしなめるが、憧一は譲れなかった。
 何故ならそれは誰にでも向けられているものではなく、主に岳にだけ向けられていたからだ。
 岳だって薄々気づいてるだろうに、あえて素知らぬ素振りで交わしているように憧一には見えた。一般的にそれが大人な対応かもしれないが、憧一としては、すごく嫌な気がしてならなかった。
 あの爬虫類のような顔で舌なめずりでもされたら、たぶん即ぶん殴る。相手の油のへばり付いた髪の毛をグシャグシャにして、かけてる黒縁眼鏡を踏み付けてやるっ! 程度のことまで簡単に想像出来てしまうほど彼のことが嫌だ。
「一歩でも手を出しやがったら……」
「ん?」
「いや。いやいや、何でもないですっ」
 小声で口にしていた言葉を岳に聞かれてしまい愛想笑いを繰り返す。しかし内心は言葉通りだ。
 ちょっとでも岳さんに何かしたら……タダじゃ済まねぇ!!



 薪逢砂山病院に着いて。裏口からリネン室に入って商品のチェックをする。使用前の商品の置き方、場所、湿度など、色々調べることはある。憧一はカバンからノートを取り出すと作ってある表に状況を書き込んでいった。
「相変わらず寒いですよね、ここ」
「暖める必要はないからな」
 各階に配られる前にある一階のリネン室は、特に空調に気を付けている。寒さ熱さよりも湿度の問題が大きくて、いつでもパリッとしたシーツを提供出来るように空調システムには気を遣っているつもりだ。
「俺は事務長に会って来るから、お前はここチェックしたら各階のリネン置き場もチェック」
「ぁ、はい。分かりました」
 時間を気にしながらスタスタと歩いて行く岳の姿を見ると、自分もさっさと済ませてしまわなければ…と言う気になる。憧一は彼の後ろ姿から目を離すと、積まれたシーツをボールペンのキャップが付いているほうでつついた。
「5・6・7・8っと……10あるか」
 きちんと棚の中に置かれているシーツと枕カバー、それに大判のタオル類を調べる。衣類系はまた全然違う場所にあるし、扱う工場が違うので次回回しだ。
 リネン室は今憧一が調べていた使用前のシーツ類が手前に置かれているが、ドアを挟んでその奥には、使われて洗浄するためのシーツが上から自動的に落とされてきていた。その奥にはトラックが荷物を出し入れするためのシャッターがあるのだが、ここは空調が効いてないために冬は寒いだけだが、夏になると色々な臭いが交じってムッとする嫌な場所でもあった。
 ドアについたガラス窓から奥の部屋を覗き込むとノブを回す。中に入りながらクンッと一嗅ぎしてみるが、暑くなる前の今はまだ大丈夫だった。
「チェックチェックっと……」
 上から物が落とされてくる場所に近づくと穴の中を覗き込む。中は明かりがないために真っ暗だが、汚れている様子はなさそうだ。そして落とされているシーツの具合を確かめるために大きな鉄で出来たカゴを横から眺めてみる。
 量としては普通。違うものも出されていない。
「ここは……シーツ類は週二回コース」
 確かめながら大丈夫だと確認する。ここには燃えないゴミ類なども置かれているためにスペース的には手狭だったが、病院の大きさを考えれば妥当だとも思えた。
 ここまでチェックを入れると憧一は急いで病室のある階まで上がり、シーツが置いてある場所に出向いた。

「おはようございます、LMSです」
「あら、おはようございます。今日は一人?」
「違いますよ、いつも二人でしょ?」
「じゃあ岳さんは?」
「………事務長に会いに言ってますけど」
 ナースステーションから繋がる場所にシーツ置き場はあるので、憧一はナースたちに挨拶をしながらシーツのチェックをしていた。でもその顔は少しだけムッとしている。と言うのは、話しかけてきたナースが彼のことを「岳さん」と親しげに呼んだからだ。
 普通名字だろ、名字。
 そう言いたいのを抑えていたから少し顔が引きつってしまったのかもしれない。そんなことはたぶん憧一が来る前からなのだろうけど、いちいちちょっと勘に触るのだ。
「友坂君」
「何です?」
「お宅って、個人的なものでも頼めるのかしら」
「………別にいいですけど……」
 ナースの中でも特に感じのいい女の子、三ツ木が後ろから小声で話しかけてきた。振り向きながらもいったい何を頼みたいのか……と首を傾げる。
 でも……彼女は確か寮住まいで何も頼むようなものはないはずなのに……。
 不思議な面持ちで相手を見るが、彼女は小さな紙切れを差し出してきた。
「これだけ欲しいんだけど……なるべく安上がりにしたいの」
「………買い取りですか?」
「個人的にリースってしてるの?」
「うーん……どうだろう………」
 差し出された紙を見てみるとシーツ・カバー類とそのサイズや枚数が細々と書かれてあった。
「この間自宅に戻った佐々木さんって知ってる?」
「いえ」
「たぶん岳さんに聞けば分かると思うんだけど、すぐ近くに住んでるの。個人的なリースが出来れば、病院に寄ったついでにここにも寄ってくれればと思って……」
「そうなんだ」
「うん」
「でも俺ひとりじゃ判断出来ないから……」
「一度聞いてみてくれないかな、出来ればでいいから」
「分かりました」
「じゃ」
 なーんだ、彼女のじゃないんだ……。
 当たり前だけど、ちょっと肩透かしを食らった気分だ。憧一は何でも岳岳岳…とみんなが言うのが癪に触る部分もあるが、それだけ彼がみんなに頼られているのだと思うと誇らしい気分にもなれた。だから誰かが彼のことを「岳さん」とか呼んだとしても広い心で許してやらなければ、と思うように努力した。


 全階のリネンの状態を調べて車に帰って来ると、ちょうど岳も裏口から出てくるところだった。ネクタイの結び目に手をやって、少し疲れた表情をしているところを見ると、またあの事務長にネチネチと何か言われたのだろう。
「岳さんっ!」
 車に乗り込む前だったので気づいてもらうために憧一は大きく手を振ってみせた。それに気づいた彼は、照れ臭そうに口の端を上げながら足早に車に近づいてきた。
「悪い、ちょっと遅くなったか」
「いや、そんなことないですよ。それより事務長は何と?」
「…クレームらしいクレームではなかったよ」
「ぇ…?」
「リースしてるものについてってよりも、置き方とか置き場所とか。俺たちがどうのってよりは、ここに入ってる清掃業者の要領が悪いらしい。それがこっちにトバッチリが来ただけの話だ。改善は病院サイドでしてくれるように話をつけてきた」
「ま……まぁそうでしょうね…。それ、俺たちが口出し出来る問題じゃないですし……」
「だろ? 何でそこまで尻拭いをしてやらなきゃならないのかが疑問だが仕方ない。次、行こうか」
 助手席に乗り込みながら言う岳に、同意しながら憧一も車に乗り込む。そしてエンジンをかけて発進させた時、さっき手渡された紙のことを思い出した。キッとブレーキを踏むと端っこのほうに車を止めてポケットを捜し出した。
「何だ? 忘れ物か?」
「ぇ…ええまぁ。………あった、これなんですけど……」
「うん?」
「さっき三ツ木さんから手渡されて…。佐々木さんって知ってます?」
「佐々木さん?」
「この近くに住んでる、ついこの間までここに入院してたって言う…」
「入院…」
「ええ」
「入院してたかどうかは知らないが、近くに住んでる佐々木さんなら知ってるが…」
「その人が個人的に商品をリースしたいって。出来なきゃ買い取りでもいいとか何とかってことなんですけど……」
「佐々木さんが…………?」
「と、三ツ木さんが言ってました」
「で、お前は何て答えたんだ?」
「いや、俺はそれまで個人的に取引とかリースとかしたことないから分からないけど、一度聞いておくって……」
「そうだな。分からないことは即答するな」
「分かってますよ。俺、これでも三年目ですよ? いつまでも新入社員みたいに扱わないでくださいよっ」
 拗ねた物言いをすると、隣に座った岳が鼻で笑ってきた。
「そうだったな」
「そうですよっ。で、どうするんですか?」
「これか?」
「ええ」
「今までは、したことないんだけどな」
「でしょ?」
「でも、これからはどうかな」
「………するんですか?」
「いい展開だと思う。どこまでニーズがあって、どこまでこなせるかは分からないが、これからは増えていくんじゃないのかな」
「………」
 岳の顔は先を見越している感じがしたが、それに比べて俺は……と憧一はちょっと落ち込んでしまうものがあった。
「何してるんだ」
「いや、岳さんのほうが生き生きしてるな…とか思って………」
「俺が?」
「ええ」
「そんなことはないさ。ただ佐々木さんに会えると思うとね」
「………岳さんって、ここ地元なんですよね」
「ああ」
「佐々木さんってどんな人なんですか?」
「うーん……。教師だったんだけど定年してから駅前でボランティアとかしてた人。ついでに言えば恩師でもある」
「ぇ、恩師ですか?!」
「そう。高校の時のだけどね」
「へぇ…。それが今や駅前でボランティア…ですか………?」
「そういう言い方は好きじゃないな」
「…すみませんっ。別に見下してるとか、そういうんじゃなくて……ぇっと……何て言うか……。教育畑の人は、そのまま教育のほうに行くのかと思ってたから……。ぇ…っと…とにかく、すみませんっ!! けして変な意味で言ったんじゃないんですっ」
「いいよ。もう分かったから」
「すみませんっ!」
「それより彼、見れば分かると思うよ。ほら、掃除とか自転車置き場の整理とかしてた人記憶にない?」
「ぅ…うーん……、あの人かな……」
 言われてみればいた。いたけど最近もずっといたような記憶しかない。グレーの作業着を着たガッチリタイプの白髪の老人だ。
「えっ、あの人寝込んじゃったんですかね。こんなにシーツがいるなんて…」
「………それは行ってみないと分からないな」
「そうですね」
 言いながら車を走らせる。
「近くなんですよね。道教えてくださいね」
「ああ、その人で合ってればだけどね」
 岳さんは前を見ながらナビゲートを始めたが、そんな言葉もおこがましいくらい近くに彼の家はあった。

 太い道から一本中に入って、右に左にと曲がって行くと細い道路に沿って彼の家はあった。昔ながらの垣根に平屋の瓦屋根の家だ。何とか車を止まらせて玄関に行くと、ちょうど中から品の良さそうなおばあちゃんが出てきた。
「あらあら岳君、もう言伝伝わったの? 早いわね」
 岳君って………。
 聞いた憧一はヒクッと片頬を痙攣させて顔を背けたが、呼ばれた本人はいたって冷静な素振りだった。
 元より激しいと言うよりも柔らかなイメージを持つ彼だが、そっと相手をいたわるように声をかけるところなど、憧一はとても好きだった。
「おはようございます、咲子さん。薪逢砂山病院から聞いてきたんですが、やはりここで正しいんですね?」
「ええ」
「ではリースの件どなたが……」
「私じゃなければ彼に決まってるでしょ。とにかく入って」
 笑顔で二人を迎え入れた彼女は、玄関からすぐのところにある和室に二人を案内してくれた。その部屋の布団に横たわる元気な老人、それが佐々木だ。
「よっ、すまんな」
 笑顔で片手をあげてくるあたり、とても病気とは思えない。
「いえ」
 岳は静かに会釈をすると布団の横に座り込んだ。そして憧一もその後ろあたりに腰を下ろすと、さっそく彼が憧一を紹介してくれた。
「今一緒に動いてる後輩の友坂です」
「初めまして、友坂です」
 紹介されてペコリと頭を下げながら相手を伺う。
 やっぱり元気だ。
「ああ、初めまして。呼び付けた格好になっちまって悪いな」
「いえ」
「で、先生。どうされたんですか? 入院してたなんて聞いてないですよ」
「ああ、大したことはないだ。脚をな、骨折してしちまっただけだ」
「………病気じゃなくて怪我なんですね?」
「そう。ワシが病気なんてするわけないだろう」
「…そうですね。でも骨折するなんて……いったい何をしたんですか?」
「人聞き悪いな。ちょっと三脚から脚を滑らせただけだ」
「それで…脚、だけですか?」
「ワシは運がいいからなっ。はっはっはっ!」
 自慢げに言う佐々木に岳が軽くため息をついた。
「普通腰とか尾てい骨とかですよね……」
「普通はなッ、普通はッ! はっはっはっ!」
「そう…ですか………」
 思わずこっちが脱力してしまうほど元気だ……。岳に続いて憧一もガックリと肩を落としたい気分になってしまった。
「それじゃ先生、わざわざリースなんていらないですよね。元気じゃないですか」
「でも寝てるんだから安くリースしろ。女房に迷惑かけられんだろう」
「そりゃ…そうですけど……」
 立ち上がりかけてから、もう一度座り直した岳は憧一に手を差し出してきた。
「はい?」
「リースの品物が書いてある紙」
「ぁ、はいはい」
「でも、介護もされてないのに、こんなにはいりませんよね。それに………」
「何だ。早く言わんか」
「脚だけなら一日中寝てることもないでしょう」
「……しかし」
 それでもまだこだわり続ける佐々木に、岳が頭を抱えるように軽いため息をついた。
「先生。僕は営業成績には困っていませんから、わざわざ仕事を回してくれなくても大丈夫ですよ?」
「………そうか?」
「ええ」
「しかしなぁ……。あ、じゃあそっちの友坂君に」
「いえ。ですから先生、僕たちにノルマはありませんので」
「そうだっけ」
「そうですッ。昔からノルマらしいノルマはないです。忘れないでくださいっ」
「そうだっけ……」
 それでも疑りのまなざしで見られて岳は憮然としていたが、それを見た憧一は笑ったのを悟られないように顔をそらしてクスクス笑っていた。
 つまり彼はたまたま怪我をして入院したから、それじゃあ自分の生徒だった岳に何かリースしてやって成績を上げてやろうと言う考えだったのだ。
「余分なことはしなくてもいいんですよ? 僕はもう学生じゃないんですからっ」
「それは分かっとるが、なぁ…」
「まあまあ、何を言ってるのかしら? お茶でもどうぞ」
「ぁ、すみません。お手間取らせて」
「いいのよ。ここに来るのは久しぶりですものね」
「ええ」
「でも…仕事にならないのに来てていいのかしら……」
 お茶をそれぞれの前に置きながら少し不安げな顔をする彼女に、岳がにっこりと微笑んで答える。
「大丈夫ですよ。たまには先生にもお会いしておかないと、こうなりますし」
「こうなるってお前……。会うたびに生意気になってるんじゃないか?」
「そんなことないですよ。いたって普通の物言いです。今日は朝からもう一件回ってますから、少しくらいロスっても大丈夫なんです。な、友坂?」
「ぁ、はい」
「そうか?」
「ええ。…っと……いただきます」
「どうぞ」
 ちょこんと佐々木のじいさんの横に座った彼女はお茶を手にした岳を優しく見つめていた。その瞳はまるで岳を慈しんでいるようで、見ている憧一も癒される感じだ。
「岳君、最近無理してない?」
「……大丈夫ですよ。いつも無理なんてしてませんから」
 無理?
「そうだぞ。けして無理はするなよ? 分かってるな?」
「…ええ」
 岳は曖昧に答えたが、憧一には彼らが何を話しているのかが分からずに小首を傾げていた。しかしその会話はそこで終わってしまい違う話題になってしまったため聞くことは出来なかった。
 いったい……。何が「無理」なんだろう……。


「それじゃあ先生。もう仕事の心配なんかしないでくださいね」
「定期的に顔を見せれば、ワシはそんなこと思わんけどな」
「はいはい……」
 苦笑しながらも実はちょっぴり嬉しい。そんな表情を二人の前で見せた。
「また、いらっしゃいね」
「はい」
「友坂君もね」
「は…はいっ。どうも……」
 とんだ部外者の憧一にまで気を遣ってもらって申し訳なかったが悪い感じはしない。ちょっと引っ掛かる部分はあったが、もし何かあったらここに聞きに来ればいいと宛てがあったから気も軽かった。
 車に乗り込んで次の店に向かう。その頃にはもう二人ともいつものペースを取り戻していた。
「次はロザンヌですか」
「そうだな。あそこは気分が明るくなっていいよ」
「ですね」
 クスリと笑いながら車を走らせる。そこは入れている商品自体は少ないのだが、病院と違っていつでも賑やかな音楽がかかっていて、ちょっと立ち寄るにはいいところだ。が、ずっといるには少々抵抗を覚える場所でもあった。
 少し走るだけで目的地にたどり着く。広い駐車場に目立つ建物。そこはパチンコ屋独特の雰囲気をうまく醸し出していた。二人は建物の裏手に車を止めると、知らされている今月のパスワードを入力して屋内に入った。
「おはようございます」
 挨拶をしながら奥へと進み、責任者である月吉(つきよし)を探す。一般の事務所にしか入室を許されていない二人は、事務所から奥には進むことが出来なかった。
「月吉さんは今日お休みですか?」
「いや、少し待ってて。もうすぐ来るから」
「ぁ、はい」
 事務所の片隅で待たされるはめになったが、従業員がこういう時はたいてい彼が来るのが遅いのを意味している。だから二人はとりあえず事務所から出て店のほうを視察してみることにした。
「いっつもあー言いますよね。で、待っててもなかなか来ない。これって有りですか?」
「そう言わない。こっちだって厳密にいつ伺いますなんて言ってないんだから」
「そりゃそうなんですけど……」
 いつも待たされることに対して、あまり頓着ない岳に「懐が広いんだな…」と感心するばかりの憧一だったが、最近もしかしたら彼はただの天然ではないかと思うようになっていた。
「あの…先輩?」
「ん?」
「待たされるの好きなんですか?」
「まさか。待たされるのが好きな奴なんて、普通いないだろう?」
「ですよねぇぇ……」
 休憩フロアにあるリース商品の具合や配置を確認して戻ると、案の定月吉が警備室から出てくるところだった。
 少し長くなった黒髪を後ろで縛り、制服である白シャツに黒のベストスーツを粋に着こなす彼は、この職種でなかったらホストをさせてもいいくらい優男だ。
 憧一は岳と出会うのが遅くて月吉に出会うのが早ければ、こっちに関心を抱いていたかもしれないと思わせるほど普通の男とは一線を画する魅力を持っている男だった。身のこなしや声のトーン、口ぶり。何より外見が洗練されている。
 でも岳さんには負けるけど。と言うのが、憧一が彼に会った時いつも語尾につける言葉だ。もちろん心の中でだが、それほど憧一にとって彼ら二人は違う世界の人間と言うか……自分とは何も接点がない、だけどだからこそ憧れる部分が多いにある人たちだった。
「ああ、いつも悪いですね」
「いえ、こちらこそ。いつも間の悪い時にすみません」
「そんなことないですよ。空いてるところに座ってください。今コーヒー入れます」
「ぁ、いえそんなことは…」
「いいから。どうせ一日回る件数なんて、決まってるようで決まってないんでしょ? ウチに来た時くらいゆっくりされたらいかがです? でないと疲れますよ?」
「……はい、ではお言葉に甘えて。……月吉さんにはすべてお見通しって感じですね」
「そんなことはありません。僕は一日のほとんどを警備室で過ごしてますから、外回りが出来る氷見野さんが羨ましいですよ」
「そんな……」
「いや、ほんと。体の筋肉がコリコリに固まってしまいそうですよ、まったく……。で、店のほうは、あなたから見てどうでした?」
「ぁ、はい。変わりなく…と言ったところでしょうか」
「でしょうね。これでも消耗品には気を付けてるんです。特に氷見野さんは、よく顔を出してくださいますしね」
 にっこりと笑いながら岳と憧一の前にコーヒーを出してくれた月吉は、自分の分も入れて手近な椅子に座り込んだ。
 空調が効いているためにコーヒーはホットでも十分なのだが、この二人のいる空間に一緒にいると思うだけで憧一はクラクラしてしまいそうになっていた。
「あれ、友坂君どうかしたの?」
「ぃ…いえっ……」
 クラクラしているのを月吉に悟られてしまい、余計に顔が赤くなる。憧一はまともに二人の顔が見れなくて俯き加減でコーヒーを傾けた。
「いつも思うんだけど、友坂君って面白いよね」
 月吉が華奢な体を乗り出して話しかけてくる。
「ぇ…何がですか? 何か面白いことしてますっけ……」
 思わず彼から目が逸れた。
「いやぁ……何て言うか……。気持ちオドオドしてるって言うか……ギクシャクしてるって言うか……。氷見野さん、彼いつもこうなんですか?」
「……いえ。そんなことないんですが……」
「…俺、そんなに挙動不審ですか?」
 心の中では相当焦っていたが、それを表に出さないようにして極力冷静を保って見せる。月吉と、振り向いた岳の視線を一身に集めてしまった憧一は、許されるならばその場で倒れてしまいたい気分だった。
「ははっ、冗談冗談。多分、友坂君体が一番デカイからそんな風に見えるだけだよね」
「は…はぁ……」
 俺ってそんなにデカかったっけ……。
 自分の身を改めて見直してみるが、けしてアメフト選手とかバスケ選手には見えない。月吉から見たら頭ひとつ分大きい程度なのに、その言われようは何だ? と首を傾げるばかりだ。
「一番年下なのになっ」
 クスッと岳に笑われて、この場が丸く収まる。
「あ…っと……一番年下って月吉さんおいくつなんですか?」
「僕? 僕は29だよ。友坂君は…」
「ぁ、24です」
「そして年長の氷見野さんは?」
「言いたくないなぁ、この流れはなに?」
 苦笑しながらコーヒーを傾けて回りを伺うが、やっぱり言わないと納得しない雰囲気に「34……」とボソッと呟いた。
「お若いですよね」
「月吉さんに言われたくないな……」
「そうですか?」
「そうですよ。なっ、友坂」
「は…はぁ……………」
 憧一から言わせれば、どっちもどっちなのだが……。返事に困っていると警備室から出てきた大柄な黒服男が声をかけてきた。
「店長、ちょっと」
 口ぶりは無愛想そのものだ。黒服とは言っても月吉が着ているベストスーツなどではなく、彼の服装は黒のスーツに同色の細ネクタイだった。
 警備会社の人…かな……。
 呼ばれて立ち上がった月吉は、岳と憧一に軽く会釈をするとカップを持ったまま警備室に向かった。
「また少し出て来れないかもしれませんから。それ、飲み干してから次に行ってくださいね」
 にっこりと微笑みながら言われると、思わず顔がニヤけそうになる。
 黒服の男がドアを開けたまま月吉が来るのを待って、その肩に手を回すと中に引き入れるような感じでパタンッとドアが締まる。それまで二人は月吉の姿を見るとはなしに見つめていた。
「大変なんですね……」
「みたいだな。特にこういう店は警備が肝心だしな」
 グビッとコーヒーを傾けて最後の一口を飲み干すと岳が立ち上がる。
「次、行こうか」
「はい」
 憧一も最後の一口を飲み干すと、出入り口にあるゴミ箱に紙コップを捨てながら事務所を後にする。
 事務所は人の出入りが激しくて、二人がいなくなると誰もいなくなった。しかしすべては警備室のカメラが見ている。何とも言えない気分だ。
 岳が建物を出るために暗証番号を押している時、憧一は月吉に向かってカメラ越しに手を振ってみせた。きっと彼が見てるだろうと思ったからだ。
 彼は「頻繁に」と言ってくれたが、リースしている商品が少ない店は事実上たまにしか来れない。次に来れるのは、たぶん一カ月後。
 次に会えた時、またあの笑顔で迎えてもらえることを祈って。


 今日は6社。順に回って社に帰って来ると、やっぱり事務所には男の社員しか残っていなかった。いつもいつも外回りばかりしているせいで、まともに自分の机に就業時間内に座った試しがない。これから憧一は報告書を書いて、岳は対策書を書き始める。終わるのは早くても一時間後だ。
「先輩、腹減りません?」
「うーん………。まぁ減ってると言えば減ってるけど……。今それ思っちゃ駄目だろう。出す書類出してからそれ考えようよ……」
 ブツブツと書類に書く文章を考えながら岳が答える。
「はいはい、そうでしたね。こんなこと言うと余計に腹が減るんでしたね」
「………うん…………」
 憧一の書かなければならない報告書よりも、岳の書かなくてはならない対策書のほうが内容的にも難しい。それを分かっている憧一は弱音を吐いた自分を戒めるためにも鳴り出しそうになる腹を押さえながら書類を書き進めた。

「終わったぁ……。そっちはどうです?」
「うん、まあ…こっちは書くこともそんなにないしね」
 二人して上司の机の上に書類を置いてから、紛失しないようにしっかり文鎮を乗せて自席に戻る。これでやっと一日の仕事が終わったわけだが、他の社員たちはまだ帰れる奴はいそうもなかった。
「お疲れ〜。先に帰るよ」
 通りがかった社員の肩をポンッと勢いよく叩くと、相手は前のめりになって立ち止まった。
「お前いいよなぁ。もう帰れるんだぁ」
「これでも十分遅いと思うけどな。腹減り減りだよっ」
「だよなぁ。でもカップ麺とかじゃ嫌なんだよなぁ」
「分かってんじゃん」
「カップ麺ならそこにあるのに」
「ぇ…」
 言われて一瞬心が揺らいだが、どうせ食べるのならもっと旨いものが食べたい。憧一は指さされた先を見つめたが、ブルブルッと頭を横に振るとさっさと帰り支度を始めた。
「先輩、飯食って行きません?」
 カバンを手に立ち上がりながら岳に向かって聞いてみた。
「………やめとくよ」
「ぇ…どうして………?」
 いつもなら軽くOKしてくれるのに、今日に限ってどうしてそんなそっけない返事をしてくるのかが分からない。憧一は立ち尽くしたまま彼を見つめた。
 岳も憧一と同じようにカバンを手にしている。いつもと変わらない様子だ。
「今からちょっと用事があるんだ」
「……私用…ですか?」
「うんまぁ、そんなところかな」
「へぇ……」
 言葉を濁すあたり、やっぱりいつもの彼ではないと感じる。憧一は何だか胸騒ぎがしてならずに、訝しげに彼を見つめ続けた。
「………どうした?」
「……いえ、別に…………」
「腹減ってるんだろ? さっさと帰らないと」
 さっき自分が同僚にやったように肩をポンッと叩かれて、彼がすれ違って行く。
 何だろう……。
 言葉に出来ない形のないモヤモヤしたものが胸に残る感じがする。
 いつもと違うくらいでこんなこと感じるなんて、どうかしている……。
 憧一は自分の勘違いだと思うようにして彼に続いた。
 普段ならここから駅までの道を二人してトボトボと歩く。
 歩くとは言っても、まともに駅まで直接帰ったことなどなく、途中どこかの食堂に寄ったりスーパーに寄ったりして寄り道ばかりだ。だから今日は珍しく駅まで直行だなと思っていたのだが、門までたどり着いた時、黒塗りの車に外に立つ運転手を見つけた岳はピタリと脚を止めた。
「どうしたんです?」
「……どうやら、今日はここまでのようだ」
「ぇ……。あの車……先輩を待ってるんですか?」
「…………そう…だと思う」
「でも今までそんなこと……」
 なかったのに……。
 その車はどう見ても金持ち、と言うか重役クラスの人間が寄越した車だと分かる。
 知り合いにそんな人がいるのかな……。
 今までは聞いたことがなかっただけで、実はとても地位が高い人と知り合いだとか……。そんな思いが頭を過った。
「私用ってあれですか?」
「ぅん……」
 答えはしたものの岳自身も何か釈然としないものを感じているらしい。言葉にすれば「どうしてここに…」とでも言いたいような顔付きだ。でもその車と運転手を見つめながらも彼はそれ以上何も言わずに何か考え込んでいる様子だった。
 立ち止まっている岳に車の外にいた運転手が気づいて深々と頭を下げてくる。
 反射的に憧一のほうが頭を下げてしまったが、してから「俺じゃなかったんだった……」と苦笑いをして隣を見る。岳は口を真一文字にしながら大きくため息をつくと車に向かって歩きだした。
「先輩っ…!」
「また、明日な。遅刻するなよっ」
 片手をあげて笑顔で一度振り返ると、もう振り返らない。そのまま彼は運転手にドアを開けてもらい乗り込んで行く。その仕草が妙に慣れていると言うか……。憧一は顔を引きつらせながら車のテールランプが見えなくなるまで立ち尽くしていた。
「おいおい………」





 翌日。いつものように出社した憧一だったが、いつまでたっても岳は出社して来なかった。
「課長、岳さんどうして来ないんですか?!」
「うーん………。誰か電話もらってないか?」
「いえ……」
 事務所にいる誰も岳が休むとは連絡を受けていなかった。
「おかしいですよっ! 今までこんなことなかったじゃないですかっ!」
「うーん……。どうしたんだろうな……」
 課長である深田幹生(ふかだ みきお)は、事務員に自宅と携帯に連絡を入れるように指示すると難しい顔で腕組みした。
「課長!」
「分かってる」
「何が分かってるんですかっ!」
「いや……。それより、奴の一番身近にいたのはお前だろう。何か心当たりはないのか」
「………え…っと……」
 言ってもいいものかどうか迷ったが、昨日の帰りの出来事を告げると、案の定大きくため息をつかれた。
「それは私生活の問題だしな……。お前だってそれ以上知らないんだろ?」
「はぃ……」
「だったら確かめようがない。もしかすると奴はそれから自宅にも帰ってないのかも…くらいの憶測しか出来ない。それだけだ」
「課長。自宅と携帯に連絡してみましたが、どちらも出ませんでした」
「そうか……。じゃあ余計に本人からの連絡を待つしかないわけだ」
「………」
 課長は心配じゃないんだろうか……と憧一は思ったが、よく見ると焦っているのは自分だけと言ってもいい状況に、独り妙な具合で浮いているような気になってしまった。
「か…課長。課長は先輩のこと心配じゃないんですか?」
 焦って聞いてみるが、当の深田はパソコンの電源を入れて何やら作業をしようとしている最中だった。
「相手は大人だ、お前よりもな」
「そ…そりゃ………そうですけど……」
「とりあえず今日一日様子を見る。お前、今日は独りで得意先回ってくれ。誰か連れて行きたければチョイスして行ってもいいぞ」
 言われて一瞬振り向こうかとも思ったが、どっちにしても要領を得てない奴と一緒に行動は出来ない。ギュッと拳を握りしめた憧一は歯軋りをするように言葉を出した。
「………いえ、独りで回ります」
「…そうか。じゃあ独りで行って来い」
「はい」
「ただし、帰って来たら報告書と対策書書けよ」
「ぇ………ぁ、はぃ……………」
 これには閉口ものだったが、独りで行動する以上仕方ないとも思えた。憧一は岳のことが気になったが、これ以上仕事に支障をきたすわけには行かなくて単独でルート回りに出発した。

 憧一たちと同じようにルート回りをして顧客の意見を聞いたり新製品や試作品の設置に動いている社員は後一組いた。
 憧一は彼らとはいつも一緒になるわけもなく、社内で顔を合わせるのも滅多にないと言えるほど接点がなかった。
 彼らの名前は研師健人(とぎし けんと)と松井貫司(まつい かんし)。研師が26で松井が28だと記憶しているが滅多に会わない。
 独りで車に乗り込んだ憧一は今日回るルートのチェックをするためにスケジュール表をカバンから取り出した。
「今日は……確か昨日とは反対ルートの山間回りCだと思ったけどな……」
 このスケジュール表はもう一組と合同で作るしか手がないのだが、それも岳がやっていたので憧一は今まで一度も口出ししたことがなかった。
 そろそろこれも覚えろってことなのかな……。
 思うが、ちょっと寂しい気持ちだ。
「先輩…。ちゃんとしてくださいよぉぉ」
 思わず口にしてしまう弱音に、憧一は泣きそうになりながらもスケジュール表を置いた。
「よっしゃ。今日は俺独りでもやってみせるさ」
 岳のことは本当に心配だったが、まずは仕事だ。
 仕事が終わったら直行で行く!
 岳の家にそのまま突っ走るつもりで山間に車を走らせる。憧一は事の真相が知りたくて仕方なかった。


 やっぱりルート的に一番奥まで行ってから戻ってくる順序で山間を回る。いつもより一カ所一カ所が遠いので、午前中には一カ所回るのが精一杯だった。
 山間を回るルートは老人施設が圧倒的に多い。憧一から言わせると、あまりに山奥にあり過ぎて逃亡するにも出来ないようにしてるんじゃないかと思うほど山奥だ。
「よくこんな山奥まで来てるよな、俺…」
 相手もいないから仕方なく自分で自分に話しかけてみる。
 木々の合間を縫うように無理やり作られた道は、辛うじてアスファルトが敷いてあるでしょう程度の作りで道幅はいたって狭かった。片方は山が迫り、もう片方は落ちたらそのままズルズルとどこまでも下っていくような感じの傾斜に木々が生えている。こんなところだから滅多なことでは人と行き合わない。
「ううう………。こんなところで車故障したら完全アウトだよなぁ」
 口にしてから「ぁ…」と短い声をあげた。
「もしかして先輩もこのケースだったりして……」
 一瞬思ってみたが、それはまず考えられない。この車ならいざ知らず、あの要人が乗るような高級車でそれはないだろうと言い切れるからだ。
「馬鹿だな、俺」
 憧一は午後から回る施設に向かいながらギリッと歯軋りをした。朝から色々考え過ぎて煮詰まっているのかもしれない。
「それより飯だろ、飯っ。まずは食って休憩だっ」
 今から行く施設の道程には唯一レストランがある。憧一は岳のことを考えるのをやめて、ひたすら昼食のことだけを考えるようにした。

 山間のレストランでお昼を済ませても時間まで何もすることがなかった。
「おばちゃん、ここって携帯使えないの?」
「悪いねぇ。アンテナは山の上にあるんだけどねぇ。どうしたわけかウチにはうまく届いてないらしくてねぇ」
 コロッとした小柄なおばちゃんが優しい口調で答えてくる。いつもなら携帯なんて休憩時間に使いたいとも思ってなかったのだが、今日は岳のことが気になるからメールでもしておこうかと考えたのだ。しかしアンテナは一本も立たずに圏外だったので、それならと厨房の出入り口にある公衆電話を貸してもらうことにした。
「おばちゃん、普通の電話はOKだよね?」
「通じてるってことかい?」
「うん」
「そりゃ…どっかで断線してなきゃ通じると思うけど?」
 そんなことがあるのか……と顔が引きつりそうになってしまったが、受話器を取り上げるとちゃんと通話可能な音が耳元に聞こえてきた。
「大丈夫みたいだから使うよ」
「どうぞー」
 カード式にも対応していない薄いピンクの電話十円玉を投入するところしかなかった。憧一は財布からあるだけの十円玉を取り出すと携帯電話を取り出して岳の電話番号を表示させてダイヤルを回した。
 ガチャリと金が下に落ちて行き呼び出し音が鳴り始める。しかし何度鳴らしても岳が出ることはなかった。
「駄目か……」
 携帯と自宅に何度かコールしてみたが、会社から事務員がかけた時と変わりなかった。
「ぁっ…!」
 受話器を置いたまま公衆電話を睨みつけていた憧一は、もう一度受話器を取り上げると今度は会社に電話をかけてみた。
「もしもし友坂ですけど、氷見野さんから何か連絡ありました?」
「あっ友坂君? まだ何もないのよ」
 電話に出た事務員の一人、りよ子が残念そうに教えてくれる。
 彼女は憧一よりも年下で主に事務所の雑務をこなしていた。小顔で長い髪をキュッとポニーテールにして野暮ったい紺色の事務服を粋に着こなしている。いわゆる事務所の花と言うヤツだったが、『せっかち』とか『早とちり』とか、そんな言葉がよく似合ってしまう欠点も持っていた。
「そうですか……」
「課長は今日一日様子を見るとか言ってたけど、そんな悠長なことで大丈夫かしらね」
「ぇ……だってそれが普通なんでしょ?」
「普通と言えば普通かもしれないんだけど……最近多いじゃない、無断欠勤してて心配して見に行ったら家でくたばってましたとかっての」
「ちょっ…!」
「いや、そうじゃないとは思うけど。でもあの氷見野さんが無断欠勤なんて……。ちょっと考えられないかな…とか思って」
「………あのさ、あんまり心配させるようなこと言わないでくれる? 俺、今ただでさえ携帯の電波届かないところにいるんだからさ」
「ごめんごめんっ。ぁ、ちょっと待ってくれる? 課長! 友坂君からラブコール入ってますけど、取り次ぎますか?」
「おいっ!」
「待ってて」
 こっちのことなどお構いなしに、勝手に深田に取り次ごうとしている。と言うか、あっと言う間に取り次いでしまっていた。
「もしもし」
 いかにも気に食わないと言いたそうな声で相手が電話口に出た。
「ぁ……っと……友坂です……」
 お前、仕事が上の空になってるだろ! と一喝されるかな…とも思ったが、時間が時間だったせいか、それはなかった。
「氷見野のことか?」
「ぁ、はぃ……何か連絡なかったかと思って……」
「心配性だな」
「だっ、だって一緒に組んでやってるんですよ? 心配して当たり前でしょ?」
「俺が無断で休んでも、みんなそんなに心配してくれないんだろうなぁ………」
「ぇ…課長、何言ってるんですかっ?!」
「いやぁ、ちょっと羨ましかったりしたから拗ねてみた」
「えっ…………!!!」
 いつにない相手の反応にこっちのほうが硬直してしまう。憧一は思わず十円玉を入れる手を止めてしまったためにピーッと音がしたかと思ったら電話が切れてしまった。
「ぇ…なに今の…………。てか、駄目じゃんっ!! 切れてるし、電話っ!!」
 慌ててまたダイヤルを回そうとしたが、もう十円玉が一枚しかないことに気づいてその手を止めた。
「ど…どうしよう…………。なんだったんだろう、あれ……。ぇ…拗ねてみたって……。そういうキャラだったかな、あの人………」
 どうもしっくりこない。憧一の彼に対するイメージは厳格でイかつくて笑いが通じそうもないはずだが……。
「壊れちゃったとか……。ははは…そんなことないよな………」
 言いたくはないが、それが一番合っている。憧一は力無く笑いながらクルリと向きを返ると座っていた席に戻った。
「用事は済んだ?」
「ぁ、はいまぁ…」
 はっきり済んだとも言えないが、もう電話する気力がない。結局知りたいことは分かったのだから、それで善にしようと勝手に決めつけることにした。
「なんか……社に帰るのが怖いかも……」
「ああ、そうそう。さっきの話だけど」
「何でしたっけ」
「断線してなきゃってやつ」
「ぁぁ、はいはい」
「人為的にやってるんじゃなくて、熊とか猪とかの仕業だからね」
「ぇ……」
「出くわしたら最後。あんな小さな車じゃヤられるしかないから気を付けな」
「ぇ………ええっ?! 俺、今まで何回かこっち来てますけど、そんな話聞いたことないんですけど!」
「……今のところ人に被害がないからニュースになってないだけ。あんた今日独りだし、助けを求めようにもね……」
「ぇ…そんなぁ! 俺、そいつらの餌とかですか?!」
「もし出くわせば誰だって餌だからっ」
「ええっー?! 何だ、それー!」
 初耳だった。
 確かに山奥だけどー! そんなこと聞いてないぃっー!!
 さっきまで岳の心配ばかりしてたのに、今はひたすら自分の心配をする。
 じゃなきゃ無事に会社にも帰れないじゃないか……!
「ひぃぃーッ!!」と叫び声をあげた憧一だったが、「でも」と食堂のおばさんに言われてそっちを振り向いた。
「もう十分暖かいから人を襲うなんてないと思うけど……出会ったら分からないわよね」
 はははっと笑われて救われたかと思ったら、もう一度谷底に落とされた気分になってしまった。
「私たちだって毎日時間になったら、さっさとここを出てるんだよ? 少しでも暗くなると危ないからねぇ」
「……………」
 それも初耳だった。山間の施設を回るルートはひとつひとつが離れた場所にあるために一日で回るためには少々の無理もしてきた。だがそんな話を聞いてしまうと、巡回もほどほどにしておかないと駄目だなと思わされた。
 今日は後二か所回ったら終わりにしよっと……。
 ちょうどそのくらいで定時上がりになるはずだ。それから社に戻って書類を書けば七時くらいにはどうにかなるのではないかと算段をつけた。
「これからルート巡回も考えないとな……」


 予定通り、定時上がりになるように施設を回ると憧一は社に急いで戻っていた。戻るとちょうど事務所にいる社員が帰る時間で、室内は帰って来た者と今から帰る者で賑やかだった。
「ぁ、友坂君。やっぱり今日は帰るの早かったのね」
「ぁ、りよ子さん」
「課長、まだいるわよ。ほら」
「あー………」
 いるだろうなとは思ったが、やっぱりいた。憧一は、りよ子のその優しさを呪いたくなりながら顔を引きつらせると思い足取りで深田の元に行った。
「ただいま戻りました。課長……あの……お昼は途中で電話切ってしまってすみません。金がなくなっちゃって……」
「と、言うことにしておいてやろう」
 深田は机に肘をつきながら憧一を見つめてきた。四角い顔の中心よりちょっと上あたりについているつぶらな瞳は、言葉通り疑ってかかっている感じがしてならなかった。
「ぇ…ほっ、本当ですよ?! 俺、嘘言ってませんよ?!」
「分かった分かった」
「課長ぉぉ!」
「で、氷見野のことなんだが」
「あっ、あれから何か連絡ありましたか?」
「ない」
「な…なぃ……。ないのか……」
「だから今から家に寄ってみようかと思ってるんだが」
「俺も、俺も行きますっ!」
「お前は、まだしなくちゃいけない仕事あるだろう」
「家に持ち帰って明日提出しますっ!」
 身を乗り出して行きたいと懇願すると、深田は渋い表情で立ち上がって憧一を上から下まで眺め回した。
「だっ、駄目なんですかっ?!」
「……………駄目」
「なんでっ?!」
「お前は俺との電話を途中で切るような奴だから、駄目っ」
「ぇ…………」
 そ…んなことで……?!
「それ、ちゃんと今謝りましたよね?! 意図的じゃないんですよ?!」
「……それでも駄目」
「何でなんですかっ! 先輩のこと一番心配してるのは俺なんですよ?!」
「………お前、自惚れてるから絶対駄目」
「………ぇ?」
「今も氷見野のこと一番心配してるのは自分だなんて、軽々しく口にしやがったから駄目」
「ぇ…でも……」
 だと思っていたから口にしたのだが、どうやら相手に言わせるとそれは大きな間違いらしい。大きな体で憮然と仁王立ちされてしまい、思わず身が縮んでしまった。
「言わせてもらえば!! お前なんかより! 俺のほうが、奴との時間は長ーいっ!」
「ぇ…?!」
「新入社員としてここに配属された時から、と言うより! 学生の時分から奴とは知り合いなんだっ」
「ぇ…えぇっ〜!!」
 憧一もそうだったが、回りで聞き耳を立てていた社員たちがいっせいに驚きの声をあげていた。
「課長っ! そんなこと一言も聞いたことありませんよっ?!」
 大袈裟に椅子から立ち上がったりよ子が大声をあげた。
「俺もっ!」
「俺もだよっ!!」
 そこそこで大声をあげる社員たちに驚いた深田は、それに驚いて軽く固まってしまったが、はははっ……と空笑いをすると照れ隠しに頭をかきながら言葉を出した。
「だって誰も聞かないから……」
「そりゃ!!」
 知らなきゃ聞きようもないと言うものだ。社員たちはお互いに顔を見合わせ目を丸くするばかりだったが、何より驚くのはどうして深田が役付で岳がそうでないかだった。
「課長、質問がありますっ」
 りよ子が真顔で手をあげて二人に近寄ってってきた。
「なんだ?」
「不思議なんですけど、氷見野さんはどうしてまだチーフ扱いでしかないんですか?」
 それは暗にどうしてお前が役付なんだ? と言いたいのを我慢しているようにも聞こえた。りよ子の質問にはみんなも大きく頷いている。それを見た深田は目をパチクリとさせてから、体裁悪そうにコホンッと咳払いをした。
「それはだなぁ……………………」
「課長」
「ぅん?」
「口が動いてませんっ」
「そ…そうか? そう…だな。動かしてないからな………」
「分かってるのなら早くしてください。頭の血管でも切れたかと思うじゃないですかっ」
「おい……………」
 それには顔を引きつらせる深田だったが、あまり言いたそうな口ぶりではないのは分かる。
「奴は休んでた時期があるからな。それで同期でも昇進が遅れてるんだ」
「休んでた…? それ、いつの話なんですか?」
「これ以上はもうプライベートな問題だ。俺は何を聞かれても口を割らんぞ」
「えぇ〜っ?!」
 すごく残念そうな声が室内に響き渡る。憧一自身も無意識にその声をあげていたが、深田の言うように、あまりプライベートなことは本人のいないところで話題にしたくない。事実でないことが勝手に一人歩きしてしまいそうで怖いからだ。
「だーから、今から俺が帰りがてら奴の所に寄ってみる。文句ないだろう!」
「ずるぅぅい!!」
 これはりよ子があげた声だが、みんな言いたいことは同じようで羨ましいを通り越して妬ましい眼差しで深田を見つめていた。
「お前ら……」
 普段はそんなことないのに今日に限って何なんだ……? と深田は眉をひそめ首を傾げたが、やっぱり誰も連れて行く気はないらしい。
「誰も連れて行かんぞーっ!!」と喚き散らしながら足早に部屋を出て行ってしまった。
「行こうと思えば行けるんだけど…」
「だな。社員登録表を調べれば嫌でも分かるからな」
「でも、行かないほうがいいみたい。ね、友坂君」
「ぇ…あ…ああ………」
 彼のあの様子を見る限り、あまり深入りして欲しくないらしいことは誰でも分かった。
「でーも何か釈然としないわね……」
 難しい顔をして腕組みをするりよ子に、隣にいた憧一は何も答えられなかった。
「ぁ、でもでも。ひとつだけ分かったことがある! 聞きたい? 聞きたい?」
 回りの社員に「聞いて!」とばかりに手をあげたりよ子が力を入れて叫んだ。
「課長は、実は構ってちゃんなのよっ!」
「え〜〜〜………」
 それには社員のみんなが不服顔だ。「そうだったらマジで嫌」と言ったブーイングは、低く長く室内に響いていた。


 憧一は当初予定していた通り会社で報告書と対策書を書き終えてから帰途に着こうとしていた。
「結局こうなるわけね。はぁぁ……」
 時間は午後七時を回っている。今日は回った箇所が少なかったので、報告書に書く量も少なくて済んだが、普段書き慣れていない対策書に手間取ってしまい時間がかかってしまった。
 駅に向かおうと屋外に出てると一台の社用車が戻ってきた。研師と松井のペアだ。
「珍しいなぁ」
 彼らは憧一たちと同じ職種をしているために滅多に会うこともない。
 一時は年の近いあのペアを羨ましくも思ったが、今は自分たちのほうがいいペアだと自負するほど憧一は岳のことが誇りだった。
 一発ですんなりと余っているスペースに車を駐車すると二人して車から降りてくる。
 片方は背が高くて美丈夫だが無愛想な男。そしてもう片方は人並みほどの背丈だが見た目から受けるイメージはヒヨコ並の柔らかさとも言われる男だった。
 その二人が組んで仕事をしている様はちょっと想像出来ないと噂されているが、当の二人は実に相性がいいらしい。ペアを組んで以来争い事は皆無だった。
 二人は談笑しながら社の出入り口であるこちらに嫌でも向かって来るのだが、突っ立っている憧一に声をかけてきたのは研師のほうだった。
「会うなんて珍しいな」
「…ああ」
「今帰りか?」
「ぁ、うん…」
「あ。今日お前単独行動だったんだって?」
「ぅんまぁ」
「ルートCだろ? 熊大丈夫だったか?」
「えっ! しっ…てたの?」
「単独行動?」
「いや、熊のほう!」
「普通知ってるだろ? な」
「うんっ」
「………」
 つまり知らないのは俺だけってことでOK?
 思わず口の端が引きつってしまいそうになるが、それを相手に見せたくはない。憧一は顔をそらしながらそそくさと一歩を踏み出した。
「あっ、そういえばだけどさっ!」
 すれ違い様にギュッと腕を取られて引っ張られる。引っ張ってきたのは松井のほうだった。
「氷見野さんのことだけど」
「おいっ!」
「ぇ…言わないほうがいい?」
 研師に遮られて松井が言うのをためらった。しかしそこまで言われては、聞かないでいられないではないか。憧一は顔を引き締めると松井を振り返った。
「岳さんがどうしたんだ?」
「いや、今日ちょっとね……」
 松井が研師のほうを伺いながら言葉を出す。
「はっきり言えよっ!」
「言ってもいい?」
「…そこまで口にしたら言わなきゃならないだろうが。ったく…」
 面倒に巻き込まれたくないと顔に書いてあるような態度の研師は、大きくため息をつくとその場に止まった。松井は研師が近くにいるのを確認すると憧一を掴んでいた手を離して向き合っていた。
「実は今日彼と会ったんだ」
「ぇ…どこで?!」
「マツ、話は正確的確に!」
「あ…っと……正確には『見かけた』だね?」
 最後は研師のほうを振り向き確認する松井に、研師が不機嫌そうに「ああ」と答えた。
「で、どこで?」
「阿宮市の駅前大通りで。車同士すれ違ったんだ」
「阿宮市……?」
「うん」
「ぇ、でも松井さんたち、今日は幕裏市(バクリシ)巡回でしたよね?」
「ぇ…ぁ、うん…………」
 阿宮市(アクシ)と幕裏市ははっきり言って隣接もしていない。どちらかと言えば幕裏市は郊外、阿宮市は中心地だ。
 口ごもる松井に、それ見たことかと言いたそうな研師が互いに顔を見合わせていた。つまりサボってましたと言うのが正解らしい。
「だから余計なこと言わなくていいのに、お前って奴は…」
「ごめん…」
 コツンと頭を叩かれて謝った松井の代わりに、今度は研師が話してきた。
「運転手付きの黒塗りの車に乗ってたぜ」
「同乗者は?!」
「いない。でも本当に奴かどうかは分からないな。何て言ったって見たのは一瞬だし」
「でもぐったりしてるみたいだった」
「ぇ…ぐったり……?」
「俺は実際見てないんだけど、マツがそう言うんだ」
「ぁ…寝てたのかもしれないんだけどね」
「俺たちが見たのは午後三時くらいかな。こっちには向かってなかったぜ」
「じゃあ反対方向に……?」
「ああ。薪逢市の方向だったかな」
「薪逢…市……?」
「奴の家がどこだか知らないから詮索しようもないんだけど、でもあの車はないよな。高級車だ」
「氷見野さん、いったい誰の車に乗ってたのかな……」
 松井と研師が首を傾げる中、憧一は一人昨日の車のことを思い出していた。
 あれか……。あの車の所有者と何かあったんだ………。
 分かるのはそのくらいだったが、薪逢市と言うのが気にかかる。
「車は誰のか分からないけど……薪逢市ってのは昨日回った場所だ……」
「別に何もなかったんだろ?」
「ぁ、ああ。これと言って何も……」
「お前、あいつの家知ってるんだろ? 今から行ってみりゃいいじゃん」
「そりゃそうなんだけど……」
「何だよ。何ためらってるんだよ、お前」
「……課長がさ、俺が行くからって定時で上がって行ってるはずなんだ……」
「あ〜ぁ、あの野郎おいしいトコ取り得意だからな」
「駄目だよ、そんなこと言っちゃ」
 松井がたしなめるが、研師は「ヘ」とも思ってない様子で話を続けた。
「顔見に寄るくらいならいいんじゃね? あいつもこんな時間までいないだろうし」
「ぅん。でもなぁ……」
「気になるなら行ったほうがいいって。今のままだと寝付き悪いだけだぞ」
「うん………」
 後押しされるともっともだとも思えるのだが、さっきの様子を聞くと、そんなに何人も顔を見せてはいけないような気がしていた。
 もう…課長が顔出してるんだし、きっと明日になれば会えるし……。
「やっぱ今日はやめとくよ。岳さん疲れてるみたいだし」
「……お前がそれでいいのならいいけど」
 研師はすんなりと引いてくれたが納得はしてない様子だった。ただ松井の手前黙っているだけの感じがした。
 こいつら仲いいからな。こんなことでケンカもしたくないだろう。
「じゃあ、俺はこれで帰るわ。お前ら、これから書類書きだろ? 頑張って」
「ホントにな。帰って来てもこれじゃあ疲れっぱなしだ」
 研師は皮肉っぽく口の端をあげて笑うと松井の背中を押して社内に入って行った。
「あのコンビ、本当に仲いいな」
 外面だけ見ると背の高さもデコボコだし性格も水と油のようだが、その凹凸部分がうまく噛み合っているのか、二人はとても仲が良かった。
 俺と岳さんもあんな風だといいんだけど……。
 それには自信がなかった。それもこれも今回のことが大きな要因だ。
 俺にも言えないこと……。てか、俺になんか言わなくてもいいって思ってることなのか………と思うと自信喪失になりそうだった。
 駅に向かって歩く足取りが何だか重い。それに普段なら腹が減って死にそうなはずなのに、今日は何だかちっとも食欲が沸かない。
「辛いって言うか悲しいって言うか……何なんだろうな、この気持ちは………」
 それでもコンビニの前まで来ると自然に足が店に向く。ほとんど条件反射で店に入ると無意識に何かを手に取っていた。
「食欲ねぇな……」
 言いながらもやっぱり食べるものは食べる。適当に食料を手に取るとレジの前に行って金を払う。数分後には、また駅に向かって歩きだしていた。
「俺、何してんだろ………」
本誌に続く
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