DLsite-illustration by千倉さま

タイトル「Lovely Loveyou-1」

「やったぁ…。やっと就職先が見つかったよ………」
 大学を卒業する春になっても就職先が見つからなかった鶉のところに、臨時教師採用の通知が届いたのは秋も深まった頃だった。
 今までバイトの掛け持ちをして、どうにか生活してきたが、チャンスがあれば教師がしたいと思って受けておいた試験。その成果が今現れた。


「緊張するなぁ……」
 名来鶉(ならい うずら)はスーツ姿で電車から降り、生徒に混じって学校までの真っすぐな道程を歩いていた。
 初登校。ではなくて、初勤務。
 ちょっと茶色がかった髪の毛は、心持ち長いかな…と言ったところだが、あいにく金がなくて切りに行けないままだった。童顔な顔付きと、どちらかと言えば低いでしょうと言う身長のせいで、グレーのスーツを着ていると、学生と間違われやしないかと不安になってしまうほどだ。だけど。
「頑張んなくちゃ」
 私立宮成高校は、鶉の家から電車で一駅と言う便利な場所にあった。だから試験も受けてみようと言う気になったのだが、私立と言う割りには、そんなに仰々しくないし、問題らしい問題も聞いたことがない。期間契約とは言え、運が良ければ、このまま正式契約に結び付くとも聞いているから手は抜けなかった。
 鶉の教える教科は現代国語。今まで教鞭を取っていた教師が、長年の腰痛から入院を余儀なくされた。その穴埋めに鶉が選ばれたのだが、彼は鶉が来るのを待たずして入院してしまった。
 いったいどう教えればいいのか……。一切の引き継ぎがなく、今日から初日。緊張しないようにしようとしても、やっぱり緊張してしまうのは否めないわけで…。大きく深呼吸をした鶉は、学校の正門をくぐったのだった。


「どうもすみません。スペース的にここしか用意出来なくて…」
「いえ……」
 案内されたのは職員室ではなくて、そこから遠く離れた四棟の国語準備室だった。
 案内してくれたのは、同じ学年で同じ教科を教える岡野末利(おかの まつり)先生。年も近そうだし、背も高くてカッコイイ。黒縁眼鏡をかけて、いかにも秀才タイプなのに気取ってない。
「分からないことは気軽に聞けそうだな…」などと惚けていると、突然彼の顔が近づいてきた。
「ぇっ…? な、何ですか?!」
「あなたのことは何て呼べばいいですか? やっぱり名来君? それとも鶉先生と?」
「え…っと……名来でも鶉でも……どっちでも構いませんが…」
「じゃ、鶉ちゃん」
「ぅ…」
「いいですか?」
「ぇ………ま…まぁ……」
 何とも言えない呼び方にひとり固まってしまった鶉だが、相手は口にしてみて余計気に入ったのか、何度も口にしてから次の言葉を吐き出した。
「鶉ちゃん」
「…はいっ」
「いいですか? ここは人気がないですから、自分がいない時には必ず鍵をかけてください。分かりましたか?」
「……ぁ、はい…。分かりましたけど……ここって、そんなに危険なんですか?」
「危険ですっ」
「ぇ……」
 そんなにキッパリと?
「と言うか、人気がない場所は、どこでも危険でしょう?」
「ま…まぁ……」
「ここは昼間でも用事がある子しか来ませんし、裏は山。生徒が危険と言うよりも、泥棒とか猿とかが危険ですよ、と言う意味です」
「さ、猿っ…ですか?!」
「はい。なので自分がいない時には、鍵はきちんとかけてください。特に窓。次にドア」
「は、はぁ……」
 初耳だった……。泥棒は分かるにしても猿とは……。
 自分の地域では聞いたことなどなかったので、鶉は目を丸くして相手を見てしまった。
「そんなに驚かないでください。でも気をつけて」
「は、はいっ…。しかし猿………とはね………」
 見たことはないが、野生の猿は結構危険で凶暴だと聞いたことがある。
 会いたくないもんだな……。
 鶉はブルリと身を震わせて俯いた。
「ではこれを。鶉ちゃんに宿題です」
「ぇ…」
「本当はすぐに教壇に立ってもらいたいんですが、何の予備知識もなく、ではやっぱり不安でしょう?」
「ま、まぁ…そうですけど……」
「なので今日、鶉ちゃんにはひとりでお勉強してもらいます」
「……お勉強…ですか?」
「はい」
 窓際まで歩いた岡野が、そこにある机の引きだしから分厚い資料を取り出して見せる。それは彼がわざわざ作ってくれたものなのか、上に二つ穴が開けられて紐でくくってあった。
「……あ…りがとうございます。でもそれ…何ですか?」
「私も今年二年生は初めてなので、入院してしまった加島先生に資料を借りてきました。定期テストの出題ポイント、例年の試験問題。何を重点的に教えたらいいかが書かれています。私はもうコピーを取りましたから、これは鶉ちゃんに」
 グイッとお仕着せるように分厚い資料を差し出してくる。それを受け取った鶉は、その分厚さにひそかに顔を引きつらせた。
「助かります。…しかし…凄いですね……」
「でしょう? 加島先生は教鞭暦が長くてらっしゃるので、教わることはいっぱいあるんです。ですから早く帰って来られるといいんですが……」
「はぁ…」
「ぁ、いけないっ。もう時間だっ。とりあえず、午前中はそれに目を通しておいてください。それから午後は、校内を案内しますね」
「ぁ、はい。よろしくお願いします」
 ペコリと頭を下げると、相手も会釈をして足早に帰って行く。ひとり残った鶉は、手にした資料を窓に沿って作られている机の上に置いた。
「ふぅ…」
 学校に着いてから。
 職員室での校長に挨拶から始まり、先生方に挨拶、事務局への挨拶、用務員さんへの挨拶と、挨拶だけで一時間以上かかってしまった。それからここへ案内されて、今から数時間で資料に目を通すと、午後からは校内回り。
「初日って忙しいなぁ……」
 ガタンッと椅子に腰掛けながら大きくため息をつく。机の上には彼が用意してくれたのか、教科書やチョークなど一通りの物がそろえられていた。
 背伸びをしながらクルリと室内を見回してみる。準備室と言うだけあって、隅のほうには映写用の機材とか、古い本がぎっしりと入ったガラス戸付きの本棚が置かれてあった。
 自分がいる場所は一面ほとんどが中窓になっていて、その中窓に合わせた幅で造り付けの机が備えられている。人数にして三人分はあるらしい。椅子が三つあって、引きだしとかも三つ分あるから間違いはないだろう。その真ん中に自分は陣取っている。他の机は上に何もないし、室内も至って綺麗だ。だからたぶんここを利用しているのは自分だけなんだろうな、と思う。
「よしっ」
 さっそく資料に目を通そうとパラパラと捲って中身を確かめる。
「これは……なんか時間かかりそうだな……」
 一面に細かい字がぎっしりと書かれてあるのを見て、思わずパタンッとそれを綴じてしまった。
「まっ、家に帰ってから見ることも出来るし、ここはちょっと先に校内でも見ておこうかな…っと……」
 つまり鶉は、あんまり勉強は好きじゃないほうで。必要に迫られないとなかなかしないタイプでもあった。そして新しいもの好きとでも言おうか、「やっぱり新しいものには早く慣れないとねー」とか言う楽観的考えの持ち主でもあったから、ウズウズが押さえ切れなかった。
「どうしようかな…」
 もうすぐ三時限目の授業が始まろうとしている。それなら授業が始まってからのほうがいいかな…と考えていると、目の前に広がる窓の外に何かが動く気配がした。
「さ、猿っ?!」
 ガバッと立ち上がってドキドキしながら見ていると、それは自分よりもだいぶん体格のいい男子生徒だった。
「ぇ…」
 こんなところに人が来るなんて……。
 さっきの岡野の話からは想像出来ない。でも実際に男子生徒は、鶉のいるほうを全然見ないまま右から左へと通り過ぎていった。
「いったい何してんだ……?」
 授業も始まろうとしているのに、こんな辺鄙なところをうろつくなんて。
 男子生徒が消えて行った方向をジッと見つめていた鶉は、身を乗り出すように机に腕をついていた。しかし建物が邪魔をして彼の姿はもう見えない。
 窓の外には、枯れ葉が一面に敷き詰めたように落ちている。たぶん今の季節は、掃いても掃いてもすぐに積もってしまうのだろう。現に今もパラリパラリと枯れ葉が止まることなく落ちてきているのだから。
 それ以外には、その葉っぱの元となる木が何本もあり、男子生徒の消えて行った左手には平屋の日本家屋が建っていた。
「あそこは何をするところなのかな……」
 校内でももっとも奥まった棟のさらに奥にある日本家屋なんて、鶉には何なのか想像出来なかった。首を傾げながら考えるが、思いつかないので、それなら直接見に行こうと手っ取り早く名目を作る。
「あの子、どこ行っちゃったのかな…。気になるから見に行ってみようっ!」
 誰に言うでもなくそう決めると行動は早い。準備室を出ると日本家屋に近い出入り口を探し、上履きのまま室外に出る。
「あれ…………?」
 男子生徒が進んだほうに自分も来たはずなのに、肝心の彼がいない。
「確かこっちに来たと思ったんだけどなぁ……」
 探しても探しても彼はいなかった。
「おかしいなぁ…」
 その降り積もった枯れ葉の具合からして、何かが動けばガサゴソと音がするに決まっている。だけど聞こえるのは、風に吹かれる枯れ葉の音ばかり。鶉は日本家屋の裏手で右往左往してから建物を一周して諦めることにした。
「ここって……」
 鶉のいる部屋からはまったく見えないが、この家屋の表側には日本庭園が広がっていた。そしてそこを見ながらすることと言えば。
「お茶とか、お花かな」
 ポンッと納得して手を鳴らす。鶉はしばらくその日本庭園を眺めていたが、やはりあまりの枯れ葉の積もり具合に「うーん……」とうなり声をあげた。
「きっと春とかは綺麗なんだろうな……。でも今は、なんかどこも枯れ葉三昧でいただけないなぁ…」
 考えてみればここに植えてある木もそうだが、山からの枯れ葉が風でみんなこの辺りまで吹かれてきている。そして山のように降り積もる結果になっているのには、苦笑するしかなかった。
「きっとこれで焼き芋とか作ったら、いっぱい出来るんだろうなぁ」
 その前に、こんなにあるものに火が点いたら怖いと言うのを考えてほしい。だけど呑気な鶉は体を右に傾けてニンマリとしながら、そんなことを考えていたのだった。

 昼休みになって食事はどうしようかな…と思っていると、準備室に岡野がやってきた。
「鶉ちゃん、資料は読めましたか?」
「ぇ…えっと………ちょっとだけ」
「まっ、そんなに早く全部は読めませんもんね。とりあえずお昼なのでご飯、一緒に行きませんか?」
「はいっ、行きますっ」
 資料については即答出来ないが、食事については即答出来る。鶉はにっこりと笑うと岡野にくっついて少しウキウキしながら準備室を出た。
「食堂と購買は、ここから一番遠くにありますから。人気のパンとかほしい時は、生徒同様、バトルしてくださいね」
「ははは……。それはちょっと……」
 外部からの搬入を考えて、生徒が購入しなければならないものは、正門から一番近い一棟に集中されていた。
 四棟ある校舎の内、一番奥にいる鶉にとっては、一棟までダッシュで行ったとしても人気メニューにはありつけそうもない。そんなことは端から分かっているので、悪あがきはしようと思わなかった。
 おとなしく岡野の後ろに続いた鶉は、追い抜いていく生徒たちをにこやかに眺めていた。男女校である宮成高校は男女の比率も約五分五分で、丈が長めなグレーのブレザーが特徴でもある。
 男女共上下グレー。中のシャツは少し薄いグレーで、細い黒系チェックのネクタイが好評だ。袖口にスリットが入っていて、細い黒のラインが一本あり、女子にはプリーツスカートの裾にも同じラインが一本入っている。それは細いネクタイと相俟っていて、近隣の高校からは羨ましがられていると聞いている。
「スーツ…もうちょっと違う色のほうが良かったですかね……」
「何故です?」
「なんか…制服と同じような色だから……」
「グレーのスーツなんて、どの先生でも一度は着るでしょ。そんなに心配するほどのことでもありません。鶉ちゃんは十分先生に見えますから大丈夫ですよ」
 先を読まれた物言いをされてしまった。鶉は口を噤んで恥ずかしそうに追い越して行く生徒たちを見てしまった。
 自分よりも背が高い生徒など当たり前にいるし、顔だって自分よりおじさん顔をした生徒だって探せばすぐに見つかる。
 これで心配するなと言われても、だいぶん無理があると言うものだ。だからせめてスーツくらいはまったく違う色を着てきたかったのに、あいにく手持ちのスーツはこれしかなかったから仕方ないのだ。
 それもこれも初任給が入るまでの我慢だと自分に言い聞かせてみる。
 今度は茶色のスーツを買おっと………。
 ブツブツと口先を動かし頭の中で考えながら目の前の岡野の背中を見つめる。
「岡野先生の着ている、そのスーツは何色ですか?」
「ぇ、私のですか?」
「はい。これ、どこで買われたんですか? よく見ると変わった色してますよね…」
 深みのあるグリーンがかったグレーに細かい模様が織り込んである、ちょっと高級そうなスーツだった。
「あー、これ何色って言うんでしょうね…。私もよく知らないんですが……薦められたので作ってもらいました」
「作って? ってことは、オーダーメイドですか?!」
「ええ。……駄目…ですか?」
「ぃ、いえっ。そうじゃなくて、ただ…すごいなぁと思っただけですっ」
「そうですか? こういう服はオーダーのほうがいいですよ? 体にフィットしてくれますし」
「そうですか…。参考にさせていただきます……」
 こうなってしまうと、とても自分のスーツは吊るしですよー、なんて言えなくなる。
 今までは生徒と自分を比べられたら嫌だな…と思っていたが、今はカッコイイ岡野とふがいない自分を比べて欲しくないとか思ってしまっている。
 駄目だな、こんなことじゃ…。
 ひとりで一喜一憂していると、だんだん辺りが騒がしくなってくる。何事かと思って岡野の後ろから顔を出してみる。と、それは購買部のパン取り合戦だった。
「あー、それそれっ。それ、俺のっ!」
「バカッ! それは俺のだろっ! よ…こせっ、チョココルネっ!」
 まさに岡野の言う通り、昼の購買部はバトルだった。そこここでパンを取り合う生徒たち。しかし賑わいはそこだけではない。うどんコーナーへの女子の長い列。単品チョイス式になっている食事のトレーを持った長い列。
「うどん。チョイス。セット。どれがいいですか?」
「岡野先生はどれにするんですか?」
「私はいつもセット定食です。AかB、どちらかを選べば事は足りますからね」
「じゃ、僕もそれにします」
「Aは肉。Bは魚となってます。栄養面を考えて作られているので、これだけで十分足りるんですが、量的に足りなければ単品をプラスすることも可能ですよ」
「へぇ…」
 定食の場所は女子にはあまり人気がないのか、ほとんど教師と男子生徒の群れだった。その一番後ろに並びながら辺りを見回すと、生徒たちは携帯やカードで食事代を払っていた。
「あの、食事代ってのは、あーいう風に携帯とかカードとか使うんですか? 僕の携帯、それ使用じゃないんですけど……」
「ああ。別に私たちはいいんですよ。食事代込みなんです」
「えっ」
 聞いてなかった……。そんなにありがたいシステムがあったとは……。
 鶉は呆然としたが、岡野は振り向くと胸の職員プレートを見せてほほ笑んできた。
「こうしてプレートを中の人に見せるだけでいいんです。得でしょう?」
「はい。でも僕…」
「大丈夫ですよ。今日は私がプレートを見せますから、それで二人分と言うことになります。鶉ちゃんのプレートも今日中には出来ると思うので、明日からはそれを使って食事してください。ぁ、でも購買で売っているものには適用されないですから、パンとかほしい時には自腹でお願いしますね」
「はい。でも凄いですね、食事代も込みなんて」
「ははは…。だからなんでしょうかね、この学校の先生は皆痩せてる方ばかりです」
「は?」
「意図的にたくさん食べそうな方は入れたがらない。そんなところじゃないでしょうか」
 笑いながら言われたが、確かに職員室には食べそうな人と言えば体育を教えているような先生くらいだった。そんなところでも選択基準があるのに驚いた鶉だが、同時に自分が大食漢じゃなくて良かったなどと、呑気なことも思っていた。

 トレーに並んだ定食を乗せてテーブルに向かい合って座る。岡野はB定食、鶉はA定食を選択していた。
 賑わう食堂は教師も生徒も関係なく座っているが、自分たちの回りには男子生徒と教師、しかも男しか座っていないような気がしてならなかった。
「なんか…座る位置片寄ってますよね…」
「ん?」
「心なし、女子生徒が遠いような気がするんですけど……」
「ああ、こっちは男が多いってことですか?」
「ええ…」
「ですね。でも仕方ありません。セットに並ぶのはたいてい男子ですからね。ぁ、鶉ちゃん、女子の近くのほうが良かったですか? それなら移動しますか?」
「ぃ、いえっ、そういう意味じゃなくて……。ただ片寄ってるな…と思っただけですので、気にしないでくださいっ………」
「そうですか?」
「は、はいっ!」
 変に女子生徒を意識しているなどと思われたら嫌なので、慌てて訂正すると少々焦りぎみに食事を取り出す。口にご飯を運んで咀嚼を繰り返しながら、何か別の話題はないものかと必死に考える。
「ぁ」
「…?」
「あの…あの部屋ですけど…」
「準備室ですか?」
「はい。あそこから見える場所って、学校の一番裏になるんですよね?」
「ええ、まあそうなりますね。…何か問題でも?」
「いえ。もうすぐ授業が始まるって時に、あんなところに来る生徒っているもんだろうか…と思って」
「……いたんですか?」
「いや、錯覚かもしれないんですけど……。ぁ、もしかしたら猿かもしれないですけど…、何かが窓の右から左に移動して行ったんですよね……」
「……普通あんなほうに行こうと思う生徒は、まずいないと思いますよ。猿と遭遇するかもしれないですしね」
「そうですよね…。じゃ、見間違い…ですかね……」
「どうなんでしょうね…。でも、とりあえず怪我されても困りますからね。次に見かけたら窓開けて注意してやってください」
「はい…」
 注意するとかしないとか、そんなことではなくて…。実は鶉はあれが誰なのかが気になっていた。やけに背の高いイイ男だった。
 パッとしか見てないくせに、そんなことを思ってしまうのはおかしいかもしれないが、何となくそう思えてしまう。それに、あの生徒はあそこでいったい何をしていたのか…。それが知りたかった。
 食事をするには、会話を抑えなくてはならない。それが幸いして鶉は箸を運びながら辺りの男子生徒を観察しだした。もしかしたら午前中に見た彼がいるかもしれないからだ。 あまり露骨にキョロキョロするのもおかしいので、いかにも自然に…と言った具合に視界を巡らせる。でも例の男子生徒は、らしき男も見つからなかった……。

 そんなこんなをしている内にも食事は終わってしまい、そこにいる理由がなくなる。女子生徒ならそのままいてもおかしくないだろうが、男子教師が二人でそんなところにいる理由がない。
 トレーを返して、少し落ち着くためにも準備室まで戻ろうとしたところに、食堂の出入り口で女子生徒の集団と遭遇してしまった。
「先生っ! この人誰?!」
「もしかして、加島先生の代わりに来るセンセ?」
「ねえねえ、教えてっ! なんかこの人、すごく可愛いんだけどっ!」
 女子生徒に取り囲まれた二人は、すっかり動けなくなってしまった。
「ふぅ…」とため息をついた岡野は、「仕方ないですね…」と言葉を出す。
「いいですか? 教壇に立つのは明日からです。だから今日は、まだお客様ですよ?」
「名前は?! 名前なんて言うの?!」
 今度は鶉のほうに女生徒が詰め寄ってくる。
「な…名来鶉です……」
「ウズラー?!」
「鶉だって!」
「すっごい名前じゃない?! 鶉ちゃん!」
「あーん、私、鶉ちゃんの授業受けたーいっ!!」
「お馬鹿ですね。あなたは私の受け持ちでしょう?」
「だーって! 鶉ちゃん、超可愛いんだもんっ!」
「食べちゃいたいくらいっ!」
「そー! 鶉だから食べちゃいたいよねー!」
 ギャハハッとひとしきり笑うと、ようやく解放される。すっかり生気を吸い取られた気分だ。
「はぁぁ…。なんか…凄いですね…」
「女子ですか?」
「ええ」
「いつもあんなもんですよ。静かだと、そっちのほうが怖いです」
「それは…そう…なんですが………」
 それにしても勢いがある。男女共学だから、そんなに大したことないだろう…とか思っていたのだが、やっぱり女子のパワーは強い。一瞬で男子の影を跡形もなく消してしまうほど威力があったからだ。
 一棟から四棟まで。一階の真ん中にぽっかりと口を開いたように、各棟を繋ぐ通路があった。棟と棟を結ぶ廊下は一階にしかなく、しかも屋根だけ。寒さや風を防ぐものはなくて、二階にいる生徒は絶対一階まで降りて来ないと、別の棟には行けないと言うやっかいな造りになっている。
 だから食事時は生徒たちが群れになって一点を目指すので、食べ終わった後も、そうそう急にその込み具合が解消されるわけではない。岡野と鶉は、たむろする生徒たちの間を縫って四棟までの通路を進まなくてはならなかった。
「いつもこんなんなんですか?」
「この状況ですか?」
「ええ」
「そうですね。やはり寒くなると皆外には出たがらないですから、空調が効いている屋内で戯れるのが一般的です」
「ぁぁ…」
 言われてみれば、この学校は教室だけではなく館内全域に空調が効いている。各棟の出入り口も手でプッシュする自動ドアだし、さすが私立…と、うなりたくなるだけはあった。「でも、これは猿対策でもあるんですけどね」
「猿…対策ですか……」
「ええ。お預かりしている生徒さんを猿の餌食にさせるわけにはいきませんから」
「ああ、それで裏はあんなに枯れ葉が積もったままなんですね?」
「違いますよ」
「…?」
「あれは業者に売るために、わざと積もらせてるんです」
「業者…ですか?」
「ええ。校長は転んでもタダでは起きない人ですから。腐葉土でも作る会社に売ってるんじゃないでしょうか。冬休みになると業者が来て、バキュームしていきますよ」
「へぇ…そうなんですか……」
 そんな光景をついぞ見たことがない鶉は、それを想像してちょっと笑ってしまった。
 すごい学校だな……。


 鶉をわざわざ準備室まで送ってくれた岡野は、「ちょっと待っててくれますか?」と言い残し、いったん職員室まで戻るとコーヒーメーカーを持ってきた。
「それは?」
「職員室には自動販売機があったでしょ? こっちには何ひとつないので、事務室に言っておいたんです。手動で悪いですが、これでお好きな時にコーヒーでもどうぞ」
「すみません…。何から何まで……」
「いえ。教員には教員の受ける一般的な権利と言うものがあります。あなただけその権利を受けられないのは、おかしいですからね。気にしないでください」
「はぁ…。そんなもんですか」
「そうですよ。自分だけ恵まれてないな…と思ったら、いつでも私に言ってください。改善させてみせますので」
「はぁ…」
 鶉には何もかも初めてで、そんなことまで言っていいのか…と戸惑うことばかりだった。だけど岡野はチャキチャキしていると言おうか…。いかにもそれが当然の権利だと言わんばかりにコーヒーメーカーのコードを引っ張ってコンセントに差し込んでいた。
「せっかくセットしたんだから、コーヒー、飲みませんか?」
「ぁ、はい」
 言われるがまま、あれよあれよと岡野に仕切られる。別に文句を言うつもりもなかったのでいいのだが、結構岡野は仕切り屋かもしれないな…などと思うようになっていた。
 コーヒーを作って飲み終わる頃になると、午後の授業が始まる。それから校内を一通り回って、注意事項を聞くと明日から受け持つクラスの名簿を渡される。
「鶉ちゃんには、A〜Fまであるクラスの内、E・Fの2クラスを受け持ってもらいます。本当は半々なんですが、途中でフェイドアウトされてもいけないですからね。ひとつは私が引き受けますよ。その代わり」
 そこまで言った岡野の口が止まる。彼の顔がしだいにニッコリとしていくのを見た鶉は、何か良からぬことを言われるのではないかと、心臓をバクバクさせてしまった。
「ぇ………っと…………」
「これ、急な申し出で悪いんですが……、加島先生が担任されていたクラスの面倒も見てください」
「た、担任ですかっ?! それはちょっと無理があるんじゃないですかっ?!」
「いえいえ。ちゃんと担任手当も付きますし、いいと思いますよ」
「でもっ!」
「加島先生は体調崩されてましたから、数年前から副担任しかされてません」
「でもっ」
「大丈夫です。副担任は副担任でしかありませんから、担任を補えばいいんですよ」
「はぁ……」
 何を言っても通されてしまいそうな勢いに根負けしてしまう。鶉は困り顔で渡された名簿を見つめるしかなかった。
「担当は2−F。担任は私ですっ」
「はぁ?! 岡野先生の…補佐を僕にしろって言うんですかっ?!」
「ですね。最初はそこまでしてもらっては身が持たないんじゃないかな…と思ってたんですが、あいにく席もこんなところですし、一刻も生徒たちになじんでいただくためには、担当クラスを私がひとつ引き受けてでも副担任をしていただいたほうが賢明かと」
「はぁ……」
「それに副担任手当は担任手当とほとんど変わりありませんから。ここは出来なくてもイエスと言うところですよ?」
 にっこりとほほ笑まれて、また惚けてしまう。鶉はワンテンポ遅れて返事をした。
「ぇ……ぁ、はい。お心遣い、あ…りがとうございます。とにかく頑張らせていただきますっ」
 ペコリと頭を下げて嬉しそうに笑顔を作る。
「それでは私は帰りのHRがありますので、これで。…それとも、もう今から皆に挨拶してしまいますか?」
「ぇ?」
「明日の朝の挨拶を予定していましたが、今からでも支障はありませんよ?」
「……いや……予定通り明日の朝でいいです。先生行ってください」
「分かりました。それではまた明日」
「はい。ありがとうございますっ」
 岡野が出ていくと、あまりの展開にビックリしてしまった鶉は、窓際の椅子に腰掛けて大きく息を吐き出した。
「ふぅぅ……。国語だけじゃなくて、副担任もか………。これはマイナスじゃなくてプラスなんだよな……。にしても急だな……」
 でもその分給料も上がるのだから幸先はいい、はずだ。
 手にしたクラス名簿を広げてE・Fと名前を確認していく。だけど顔写真がないので本当に名前の確認だけだ。漢字の横にカタカナで読み方が書いてあるのは助かったが、やはり実際に顔を見ないと実感が湧かないと言うか……。と思いながら、紙から目を離して正面の風景に目をやろうとした。
「ギャッ!!! ぉ、おぉっ?!」
「………」
 目の前のガラスにへばり付くように鼻から上を出して覗き込んでいる生徒と目が合った。 昼間の男子だ。
 今時珍しく真っ黒な髪に黒目がちな瞳。眉もキリッとしていて男前なのは、顔半分しか見えなくてもよく分かる。
「き、君っ! そ…んなところで、いったい何を……!」
「…………誰?」
「えっ?!」
「あんた」
「ぼ、僕?! 僕は………先生だけど?」
 どう説明したらいいのか分からなくて、とりあえず間違ってはいないだろう言葉を選択して言葉を出していた。
「って言うか、君こそ誰っ!」
「………俺?」
「そうっ!」
「………川並駆史(かわなみ くし)………」
「で、なにやってんの?! 君、午前中もこっち来たよねっ?!」
「………」
 しばらく考えてからコクンと頷いた駆史は、視線をそらすと「入れて」と一言言った。
「どこからっ?!」
「………ここ」
 指さしたのは、今話している窓だった。要するに開けてくれれば、そこから入ると言うことだろう。仕方ないので、カギを開けると窓も開けてやる。立ち上がった彼は、思ったよりも大きくて、窓枠に手をかけたかと思ったら勢いをつけることもなく、跨ぐかたちで室内に入り込んできた。
 膝立ちで机に上がると、もう片方の脚を鶉のいるほうにつける。鶉には到底出来ない歩数で相手は室内に入り込んできた。室内に入ると、パンパンッと制服をはたいて襟を整えると鶉と向き合ってきた。その身長差に鶉は改めて驚くばかりだった。
「君、背がデカいね……」
 駆史が首を横に振る。それから手が伸びてきて、あっと言う間に鶉は彼に抱き締められていた。
「ぇ…………?」
「………」
「え……っと…………」
 海外式挨拶………? とか思ってみる。でも……。
「君。んーーーっと……川並君? これはいったい…何してんのかな………?」
「ほうよう…………」
「ほうよう……? ああ、抱擁ね。抱擁? なんで? って、なんでっ?!」
 抱き締められている体を離すためにギュゥゥゥッと腕を伸ばしてみる。が、相手の力が強すぎて、伸ばしたはずの腕はほとんど伸ばすことは出来なかった。はたから見ると、ただ抱き締められているだけ、と言う感じ。それでも相手は何も言ってくれなくて、うっとりと抱き締めながらほお擦りされると、どうしていいか分からなくなる。
「ちょぉぉぉぉっ……!」
「……………すき」
「ええっ?! 何、お前っ! キモイっ! 離れろって! てか、離せって!」
「………」
 あたふたして赤面ものでもがくと、少しだけ自由になった腕から抜け出すことが出来た。するとその分だけ相手が寂しそうな顔をするもんだから、一時停止して彼を見上げてしまう。
 な…んで……? 何なんだ、こいつ…………?!
 思っていると再びギュッと抱き締められて、訳が分からず泣きたくなった。
「だからやめろってばっ!」
「…………好き」
「僕は、ぬいぐるみじゃなーいっ!」
 それから数十分間。
 本当は数分間かもしれないが、とにかく相手が落ち着くまでずーっと、鶉は彼に抱き締められているしかなかった。そしてやっと体を離してくれた時には名残惜しそうにされる。彼が何故そんな態度を取るのかが分からない鶉は、ひたすらいぶかしげに相手を見つめた。
「気が済んだ?」
「………」
 うん。と首が縦に振られるのを見て、やっと少しだけ鶉も安心出来る。
「そこ座って。コーヒーでも入れるよ」
「………」
 また首が縦に振られる。言葉が少なすぎてどう対応したらいいのか、本当に分かり辛い子だな…と思いながらも、どこか憎めない雰囲気がする。鶉はほほ笑みながら相手を伺うように見つめると、とたんにヘラヘラと顔を崩されて脱力したくなった。
「だいたいさぁ、君は何? 何のためにこんなところまで来てるんだ? こっちは猿が出没するんだろ? 危ないとは思わないのか?」
「……会ったこと、ない……」
 大丈夫。と言葉を続けたいんだろうな…と察する。
「まったく君ってさ……言葉、足りないとは思わないのか?」
「……思う」
「だったら!」
「………」
「いや、ごめん。そんなに急に人は変われないよな。でーも、ちょっとやっぱり少なすぎるよ。人のこと名前も知らないのに、突然抱き締めて、その……なんだ……。好き…だなんて………」
 最後のほうは、どんどん言葉が小さくなっていく。自分で言った言葉に恥ずかしさが隠せなくて、あたふたした鶉はちょうど二つあったカップを出入り口の横にある小さな洗面所で必要以上にていねいに洗った。それでも間が持たなくて、戻ってくると向き合ってひたすらコーヒーが出来るのを待った。
「………」
「………」
「………」
「………」
 まったく息が詰まりそうな時間だ。
「はぁぁぁぁぁぁ…………」
 駄目だ。会話が続かない……。こんなに話が進まない相手って今までいただろうか…。
 大きくため息をしながら、上目使いで相手をチラリと見てみる。目が合ってまたヘラヘラッと顔を崩されると、とっさにそっぽを向くしかない。
「……」
 そんな顔されると、こっちが恥ずかしいだろっ。
「名前」
「ぇ?」
「名前…………。先生の」
「ぁ、ああ。僕の名前ね。名来鶉だよ。明日から二年の国語を担当するんだ。君は何年生?」
「………………君…じゃない」
「ごめん。川並君は、何年生かな?」
「………二年」
「何組?」
「…………F」
「じゃあ岡野先生のクラスだ。って! 今HRじゃないのっ?!」
「うん」
「じゃあ教室に帰らなきゃ」
「………」
 今度は珍しく首が横に振られた。
「何で? どうして?!」
「……」
 相手が、いい匂いのしだしたコーヒーのほうを見る。
「ぇ、コーヒー飲んでからってこと?!」
「………」
 うん。と頷く。これにはお手上げだった。
「飲んでたらHR終わっちゃうよね。それ、分かってて言ってる?」
「うん」
「困った子だな………」
 とは思ったものの、今から帰ってももう終わっているかもしれないので、まあいいか…と苦笑する。鶉は彼にコーヒーを入れてやり、自分も口をつけながら相手を観察した。
 頭ひとつ分くらい身長差がある相手だけれど、威圧感とか怖さはない。そしてたぶん口数が少ない分、態度で示す性格なんじゃないかと勝手に判断した。じゃなきゃ、あの態度の意味が分からないからだ。
 あの「好き」ってのは、ラブリーとかキュートとかの好きであって、ラブユーの好きじゃない。そう思えば納得納得。
 自分で自分の考えに納得するとニッコリと笑みを作る。
「あのさ、いったい何をしにこんな辺鄙なところまでわざわざ来てるわけ?」
「………餌付け?」
「猿のっ?!」
「………リス」
「リス? リスなんているの?」
「………」
 コクンと頷かれる。この頃になると、何となく相手が何を言いたいのかが分かってくる。
「へぇ…。リスなんているんだ」
 猿がいるのだからリスがいてもおかしくはないだろう。そんな単純な思い込みで窓の外に広がる枯れ葉の風景を見つめてみる。
「そうだ。君は…じゃない。川並君は…」
「駆史」
「……駆史君は2−Fだから先に挨拶しておくね。僕、明日から2−Fの副担任もするんだ。国語はEF担当だから、よろしくね」
「………」
 駆史は大きく目を見開いてから、深くコクンと首を縦に振った。たぶん今相手はすごく驚いているんだと思う。黒目がちの瞳がクリクリしているからだ。
「鶉」
「鶉先生っ、だろ?」
「いいもの見せてあげる」
「なに……?」
 駆史の言葉が単語じゃないのにちょっと驚いていると、コーヒーを置いて手を取られる。そのまま窓を開けて外に出ると両手を差し出してきた。
「ぇ…僕もそこから?」
「うん」
「……誰も…見てない…よね……?」
 室内でキョロキョロしても仕方ないのに、鶉は反射的に室内で左右後ろを確認すると、覚悟を決めるようにゴクンと唾を飲み込み、おずおずと手を差し出した。机に膝を乗せて相手に手を差し出すと軽々と持ち上げられて枯れ葉の地面に着地している。
「こっち」
「ぁ、ちょっと待って」
 岡野に言われた言葉が頭の中をよぎる。慌てて開けっ放しの窓を閉めた鶉は、先を行く駆史に続いた。
 カサカサと枯れ葉を踏み締めながら日本家屋のあるほうに歩く。駆史はその建物の横、山側のほうに足を向けた。それに鶉も続いたのだが、家の途中で駆史が立ち止まって蹲った。
「こっち」
「なになに?」
 いったい何が見せたいのだろう。手招きされて浮かれぎみに駆け寄った。
「これ」
「ん? ぇ、なにこれ………」
「餌?」
「餌…って………」
 駆史の見せてくれたのは、大量のどんぐりだった。家の軒下にある作り付けの縁側の下。そこに小さな木箱が隠すように置かれていて、その中にどんぐりがしこたま入れられていたのだ。その箱を取り出した駆史は近くの木の下まで行くと、ひとつづつどんぐりを置いてこっちにきた。
「これ、置く。リス、来る。無事捕獲」
「え………それはちょっと…………」
 無理があるだろう…………。
 教えたかったが、相手が真剣なので言うに言えなかった。どんぐりをていねいにひとつづつ置くと木の葉に上に這いつくばる。手を引かれて同じ姿勢にされると、上から木の葉をかけられた。
「ぇ、そこまでするのっ?!」
「する」
「一張羅なんですけど、このスーツ………」
 すっかり泣きたい気分だが、駆史だって制服だから一緒だろう。それでもやりたいなんて…。よっぽどリスが好きなんだろうな……と言うことで我慢することにした。
 カサカサと木の葉が舞い落ちる中、駆史と二人きり。肩を抱かれて待つこと数分。何も起こらなかった。
「あのさ……」
「………」
 だけど相手は聞く耳を持たないと言おうか…。ひたすら前方のどんぐりの列をまんじりともせずに眺めていた。だから鶉も仕方なく付き合う。
 待つことまた数分。当然のことだが、変化なし。さすがに痺れをきらした鶉は、駆史の腕を解いて起き上がろうとした。
「………ちょ…なに? まだやんの?」
「鶉」
「なに?」
「好き」
「だーかーらー。って! ちょ! なに? 何すんだよっ?! んっ! んんっ…んっ……」
 好きだと言いながら駆史の手が鶉の体を弄ってくる。あまりに突然のことでびっくりすることしか出来なかった鶉は、大きな体に覆いかぶさられるしかなくて、キスされながらワイシャツを引き抜かれた。そしてすかさず入り込んでくる指にビクンッと体を震わせる。
「冷たい?」
「じゃなくてっ! 川並、こんなのおかしいっ!」
「駆史」
「駆史! こんなの…おかしいよっ!」
「おかしくない。俺、鶉好き」
「僕は好きなんて一言も言ってないぞっ!」
「ぁ………」
 言ったとたんに相手の手が止まり、顔が曇っていくのが分かる。鶉は枯れ葉の上に押さえ付けられながら、どうしたらいいのか困ってしまった。
「ぁ…ごめん。ダイレクト過ぎた? でも…だってお前…突然。そう! 突然過ぎるからっ!」
「じゃなきゃ、いいの?」
「ぇ…?」
「俺、鶉のこと好き。抱き締めて、キスして、俺のものにしたい。だから鶉、俺の言うこと聞いて」
「えぇぇぇぇ……………」
 まともに話せるじゃん………。とか、とんちんかんなことを考えてしまったが、話した内容はとんでもないことだ。なので、どう返したらいいのか分からずに顔が引きつる。
「鶉、答えて」
「こ…たえられるかっ! 退けっ! 退けったらっ!」
「駄目。答え、くれるまで、離さない」
「や…」
 駆史は押さえていた鶉の体に触るのを再開させてきた。片手で鶉の両手を押さえ付け、片手で素肌の上に指を這わせる。腹に、腰に、胸に。そして駆史の指が胸の突起を探り当て、確かめるように触りながら顔が近づいてくる。
「鶉……」
「ぅ…」
 脚の間にグイグイ体を入り込ませて駆史が「好きだ」とささやく。鶉はその行為に思わず涙を浮かべてしまい、それを悟られるのが嫌で顔を背けた。
「鶉……?」
「乳…触んなっ……」
「どこなら、いい?」
「っ……」
「言って」
「どこも嫌だっ…」
「鶉、ウブ」
「うっさいっ! ……んっ! ぁ…」
「でも感度は、いい」
「うっさいっ! だいたいお前はっ……! ぁ……く、くそっ……!」
 乳首を触るのをやめた駆史の手が股間を揉みだす。脚を割られて言うことを効かない上に、そんなことをされたら……。
「ぅ…ぅぅっ……ぅ………」
「鶉………」
「な…んでお前に、こ…んなこと………」
「鶉は、俺に愛されるために存在する」
「揉みながら…言うなっ!」
「鶉…………。好きって言って」
「や……」
「好き」
 促されて揉みしだかれて、思わずその言葉を言いそうになってしまう。鶉は自分自身でそれを阻止するためにも、あえて声を荒げた。
「い…やだっ!」
「鶉、我が儘」
「我が儘じゃないっ……!」
「堅くなってきてるのに」
「だ…から、揉むなってば……! ぅぅ………」
 股間を揉みながら、指を一本だけ伸ばされて後ろを探られる。鶉は腰をくねらせて、それから逃れようとしたが、駆史は股間を押し付けてくるばかりで一向に効果はなかった。
「鶉、そろそろ入れたい」
「馬鹿か、お前はっ!」
「でも我慢する。俺、鶉が好きって言ってくれるまで、待つ」
「はぁ?! 何だ、それっ! ぜーってぇねぇ! 金輪際ねぇっ! 死ぬまで、あるわけねぇっ!」
「………」
 一気にまくし立ててポロリと涙を流す。それを見た駆史は、にっこりと笑うと鶉を解放して立ち上がった。ひとり枯れ葉の絨毯に横になっていた鶉は、差し出された腕に手を出そうとしてハッと我に返ると、ガバッと立ち上がった。
 なんで手なんかっ!
「鶉、好き」
「僕は…嫌いっ!」
「………」
「ぁ、ごめんっ。嫌いとかって言っても、それはこんなことするからであって、根本的に君のことは」
「駆史」
「駆史のことは……。って、何でそんなところでいつも突っ込み入れるんだよっ!」
「名前、呼んで欲しい」
「………」
「名前で呼んで」
「………分かった。でも話の腰折れたな………」
 ヒューと風が吹きすさぶ中、向き合った二人は枯れ葉だらけだった。
「…」
「…」
「何してるんですかぁぁ?! そんなところにいると猿に襲われても知りませんよぉぉ!」
 そんな声がして振り返ると、岡野が準備室から顔を出して叫んでいた。
「ぁ、すみませーん」
 変なとこ見られちゃったな……と、少し恥ずかしがりながらパンパンッと服についた汚れを払う。
「こっち」
「ぇ?」
 駆史に腕を取られて無理やり引っ張られながら歩きだす。すると駆史は鶉を棟の出入り口まで連れて行ってくれたのだった。そこまで連れて来るとギュッと抱き締めてサッと離した。
「じゃ」
「ぇ…えぇぇぇぇぇ……………」
 あっさりと片手をあげて帰っていく駆史。それを見た鶉は、何が何だか分からなくて立ち尽くすしかなかった。
「ぁ、いたいた鶉ちゃん」
「岡野先生…」
「あんなところにいて大丈夫でしたか?」
「え? あ、まぁ……」
「それにしても、その服。すごい落ち葉ですね。相撲でもしてたんですか?」
「あ、いやこれは……」
 言い淀んでいると、岡野が洋服についている落ち葉を手で払いだしてくれた。
「ぁ、すみませんっ」
「いいんですよ。それより、川並君と一緒だったでしょう? 凄いですね、もうあの子にあんなに拘われるなんて」
「ぇ…そう、なんですか?」
「そうですよ。彼、二年だけど本当なら三年生ですから、皆敬遠してしまうところがあって…。ぁ、でも女子とか一部の男子なんかは、話しかけたりしてるんですけどね。なかなか会話にならないって言うか……。話してくれないんですよ」
「はぁ………」
 それは何となく分かる気もするけど、話してくれないから消極的と言うのでは絶対にないと思う。
 いや、逆にとっても積極的でしたよ。などとは、口が裂けても言えない鶉は、顔を引きつらせたのだが、岡野の言葉に引っ掛かるところがあった。
「あの…彼が本当なら三年って……どういうことですか?」
「どういうことなんでしょうね。私も去年担当してないので詳しいことは分からないんですが……どうやら一年休学したみたいですよ」
「休学……」
「ええ。私立じゃ留学以外では珍しいと思うんですけどね……」
「………」
 それが彼の無口になっている原因でもないのだろうが、もしそれが原因だったのなら……とか、要らぬお世話なのに気になる。
「彼も2−Fなんですよね?」
「ええ」
「明日…そこのところ彼に聞いてみてもいいですか?」
「それは……別に構いませんが………」
 鶉の洋服を払う手を休めた岡野は、ちょっと驚いた顔をしてからニッコリとほほ笑んでキュッと抱き締めてきた。
「えっ……!」
「あなた、とてもいい人ですね。私はそういう人、好きですよ」
「あ…りがとうございます。しかしこれはっ…………」
「ぁぁ、気にしないでください。ただのスキンシップですから」
「はははははっ………」
 気にするなと言われても、普通は絶対気にする!
 鶉はさっきと言い、今と言い、どうしたらいいのか分からなくなることだらけで倒れてしまいたい気分だった。
 僕は、ここにいて本当に大丈夫なんだろうか……。
 ほんのちょっぴりの不安と、希望の職場で働ける嬉しさと、両天秤にかけながらの鶉の生活は今、始まろうとしていた。
終わり