タイトル「誘い水」

 季節は着実に夏へと近づいてきている。そして俺の心のモヤモヤも胸の中で濁ってきていた。蒸し暑い昼下がり。たいくつな授業。友達といるのは楽しいが、それだけじゃつまらない毎日。
 俺はある時を境に、教室からあいつの姿を目で追うのが日課になってしまっていた。
 ベージュの作業着に、深々と被られた同色の帽子。花壇の前で屈み込んで花の手入れをしている男は、実はとんでもない皮を被っているんだ……。


「吉良君。調子悪いの?」
「…って言うか……」
 確かに調子は悪かった。だけど聞いてきたのは女子だ。
「いやぁ、ちょっとゲリぎみでさ…」とも言えないだろう。
 とりあえず愛想笑いをしてみたが、それでもと思い、授業が始まるギリギリで教室を出た。今ならまだ保健室に行って薬をもらってから、また教室に戻ればいいと踏んでたんだ。 別に一時間くらいサボっても良いんだけど、いざサボるとなると、暇を持て余してしまうから。それならちょっとくらい面白くなくても、一応授業に顔を出しておけば単位は取れるからね。そうするようにしているだけの話だ。
 人気がなくなった廊下を屈みぎみになりながら歩く。こういう姿って、きっと人から見たらとてもカッコ悪いんだろうな。何せ自分でカッコ悪いと思うんだから。
「うぅ…」
 そう思うと俺は自分の情けなさと体調の悪さに顔をしかめ、ひたすら歩く速度を早めた。
 別棟にある三階建の建物の一階に保健室がある。そこは各階に渡り廊下がついていて先生連中が動きやすくなっている場所でもある。
 なぜって、そこの二階に職員室があるからだ。その隣はお決まりの校長室。で、その真下にあたる部屋が保健室ってわけ。
 事務手続きを円滑にするためにすべてを集中させてるらしいけど、生徒はあまり行きたいと思う場所ではないと思う。俺もその出来事があるまでは、単純にドーム型になっている学食舎の方に興味があったクチだ。
「後少し…」
 渡り廊下を渡ってしまえば、目的地は目の前だと思った時、正規のルートを通る俺とは別に、庭から入れるようになっている掃き出し窓から保健室に入って行く奴を見つけた。
 でもそれは生徒じゃなくてベージュの作業着を着た「用務員のおっさん」だった。
「あれ…ケガでもしたのかな…」
 普通そう思うだろう。俺もそう思った。だけどそれが俺の固定観念をねじ曲げるきっかけだった。
 当時普通の高校生。いや、今だって見かけは普通の高校生なんだけど、考え方が単純だった俺は、誰かがいたとしても薬をもらえば用は足りるんだからいいんじゃないだろうかって考えだった。
 足取りが少し重いのは、腹が痛かったからに過ぎない。廊下を渡り切ってすぐにある保健室の引き戸を開ける時だって、普段誰もがしているようにノックもしなかった。
 ガラリと開けて「先生」と言ったまでは良かったが、その後が続かなかった。
「……ぇ…」
 ただポカンと口を開け、目の前で起きている信じられない事実に呆然としてしまったんだ。
「や……めろッ……! 生徒が見てる…」
「見たきゃ見せとけばいいじゃねぇか…」
「……」
 小馬鹿にするような言葉とまなざし。保険医に抱き着くベージュの作業着の男。
 それはたぶん…と言うより確実に、あの「用務員のおっさん」だった。生徒の間では、さして気に止められることもなく、年齢さえも知られてない男だ。
 でも、その時俺の前にいたのは、あの「用務員のおっさん」だけど、そうじゃない男って言うか……。初めて見た奴の本当の姿に、俺は驚きが隠せなかった。
 男は嫌がる保険医を抱き締めて、挑発するようにその首筋に唇を寄せていた。白衣でよく分からなかったけど、両手は相手の腰の辺りでもぞついている。
 保険医はこの学校でも人気がある教員の一人だったが、今はこの場をどう取り繕っていいのかが分からなくて俺の方を振り向けないでいる。
 俺は……俺はどうしていいのかが分からずに、ただ二人のそんな姿を見つめ続けるしかなかった。でもゴクンと唾を飲み込む自分の音だけが、やけに大きく聞こえていたことを覚えている…。

 はだけた白衣の中を男の手が這い回る。そのたびに皺が寄っては消え、保険医が嗚咽をこらえる数が多くなっていく。
 こんなこと、あっていいんだろうか……。
 俺はうまく回転しない頭の中でそんなことを考えた。
 そんな俺の考えが伝わったかのように、男がまた違う行動に出てきた。自分の体。それも下半身を相手に密着させるような格好を取ると、相手のシャツを背中から引き出してその素肌に触る。
「ぁ……」と小さな声が漏れて保険医の顔が奴の胸に埋もれた。男はその背中や尻を撫で回し相手の尻をグイッと引き寄せると、より密着させていた。
 俺は彼が何をされているのか薄々気づいていた。だけどそれを止めようとはしなかった。否、しなかったと言うより、むしろそれをもっと見たかったのかもしれない。
 奴は俺を見つめながら、なおも保険医を触り続けた。カチャカチャとベルトを外す音がする。
「や…やめッ…」
 それを止めようとする保険医が必死になってもがくが、受け入れずにズボンが床に落ちる。白衣の間からスラッとした素足が顔を覗かせたと思ったら、下着の中に手を入れられたのだろう。
「ぅッ…」と唸った保険医はブルブルと震え出し、立っているのも辛いのか、苦しげに男につがみついた。

 それから先、俺は何が行われるかを知っていた。
 そんなの男だって女だって同じだからだ。奴は俺が動かなければ、それも見せつけるつもりだったのかもしれない。が、見てしまったら俺は戻れなくなる。そんな考えが頭を過った。そして気がついたら、彼らから顔を背け一歩身を引いていた。
 廊下に出て、そのまま自分が来た方向に体を向けると一歩、また一歩と歩きだす。一、二歩足を進めるとだんだん速度をつけて、ついには走りだす。
 さっき渡った廊下を一目散に駆け抜けている自分がいる。
 顔が火照って心臓がバクバクしている自分がいる。
 どうにかしてそれを押さえようとするんだけど、そんなの簡単に直るはずもない。とてもじゃないが、後ろなんて振り向けなかった。余裕がなくて…ってよりも、振り向くのが恐かったのかもしれない。
 俺は、ただひたすらあの場所から逃げることばかりを考えていた。

 渡り廊下を突っ走ってしまうと、もう授業は始まっている様子だった。
 しんと静まりかえった廊下にいるのは自分だけで、どこに行こうかと迷った揚げ句、階段を登り切った屋上に足を向ける。
 そこなら誰もいるはずもなく、隣の校舎からも見られない。階段を登り切ったらすぐ、水の入ったタンクの影に隠れるようにしゃがみ込む。自分の息だけがゼイゼイ聞こえてきて、心臓の音がまた大きくなったように思えた。
「静まれ、静まるんだ……」
 必死になって自分の胸を押さえたけれど、それだけじゃ簡単に元に戻るはずもない。頭の中には、まだ今見せられていた光景が何度もリプレイされて止まらない。
「はぁ……」と大きく息をついて、始めてコンクリートに尻を付けた。
 落ち着け、落ち着け……。
 自分に言い聞かせながら足元を見つめる。
「俺は……」
 初めて見る奴の別の顔に何かを感じていた。
「あいつ……」
 服装さえ変われば俳優でも通じそうな顔をしていた……。それに見せつけるようなあの態度……。
「あいつは…何がしたかったんだ……?」
 いや、俺は……何を望んでるんだ………。
 股間の高ぶりに気づいてギュッと握り締める。
「くそっ…!」
 拳でコンクリートを叩いた手が痛い。俺は…自分が抱いたある感情を素直には受け入れられなかった……。


 あれから、保健室には行ってない。
 でも…あの日の出来事から逃れられないでいる。
 そう。俺はあれからずっと、あの用務員の皮を被った男を目で追うようになっていた。 毎日…奴のことばかり考えている。あの手で、あの瞳で、何をされたいのか……。分かっているけど、まだ認めたくない自分がいる。 終わり