タイトル「捨て猫オヤジDULLの言い分」試読。

 雨の日は嫌いだ。
「早く帰らなきゃ。濡れ鼠になってしまう」
 傘を差していても防ぎ切れないほどの雨の中、テオドラ・ルシールは独り言を言いながら自宅へ急いでいた。時間はもう八時を過ぎている。学校で明日の教材を作っていたらすっかり遅くなってしまったのだ。
 大きな通りに出て、それから向かいに渡れば、もう自宅までほんの少しになる。本当はこのまま通りを横切ってしまえばもっと近いのだが、それは自分的に許せなかったので少し歩いた横断歩道まで急ぐ。
「あぁ…雨がっ……」
 どんどん強くなっている。そして信号が青から赤に変わったのを見たテオは歩を緩めた。次の青になるまで、ゆっくりと歩けばいいやと言う気でいたからだ。とたんにトボトボと歩きだしたその先に何かが横たわっているのが見えた。
「何だ?」
 雨の中よくは見えないが、たぶん……自分と同じ猫だ。
「なっ……に?」
 何であんなところで……。
 まるで「もうちょっとで渡り切れたのに残念でした」と言う風に、上半身を歩道に、下半身を道路に残して男が倒れていたいたのだ。
「どうしてこんなところで……。って! そんなことより。ちょっとっ、あなた! 大丈夫ですか?!」
「………」
「ああ…。早くしないとっ!」
 早くしないと下半身が車に轢かれてしまうっ!
 傘を放り出して駆け寄ると彼の全身を歩道に移動させる。
「あなたっ! ちょっとあなたっ! 大丈夫ですか?!」
「………」
 大声で叫びながら肩を揺すってみる。だけど相手は何も反応をみせずにただグッタリしているだけだ。
「ちょっとあなたっ! あなたっ!」
「………」
「駄目だ。どうしよう………」
 ずぶ濡れになりながらこれからどうしようかと考える。
「ってか、生きてるかっ?!」
 十分に揺すってしまってから生死を確認するために顔に顔を近づける。グレーの髪の毛がベッタリと顔に引っ付いていたので、それをかき分けると顔を見て驚いた。
「わ…かい……?」
 いや、おじさんか……?
 一瞬マジマジと相手を見てしまうほど何かを感じたのだが、そんなことよりもまずは生死の確認だと気づく。
 テオは気を取り直すと鼻に耳を近づけて息があるかどうかを確認した。体は冷たかったが、息はある。テオは自分の傘を放ったまま、ぐったりしている男を背負って自宅への道を急いだのだった。
「とんだ拾い物だっ……」





「………………な……に…………?」
「気が付きましたか?」
「……………」
 翌朝、男が目を覚ました。しかし現状の把握が出来てないために目は開けているが、まだ夢を見ているように目が泳いでいるように見える。テオはワイシャツのボタンを止めながら目覚めたばかりの男を覗き込み話しかけた。
「大丈夫ですか? 僕は今から学校に行かなければなりませんので、体が回復するまでそこで寝ててくださって結構ですよ」
「…………ぁ………んた………」
「僕? 僕はテオ。学校の先生です。あなたは?」
「俺? 俺は……………」
「ああ、いいです。もう時間がないので詳しくは帰ってきてから。いいですか? 無断でここから出て行かないように。分かりましたか?」
「ぁ……ぁぁ…………」
「では」
 とりあえず相手が目を覚ましてくれたことに安堵する。何かを取られるとかよりも相手のことが気になって仕方なかったのだ。
 テオは海みたい青い瞳を細めるとネクタイをきっちりと締め、サスペンダーを引き上げてカバン片手に玄関を出た。
 帰ってくるまでいるだろうか……。彼の名は………何と言うのだろう。
 それさえも知らないのに部屋に彼を残したまま学校に出向くのは不本意ではあったが仕方ない。昨日。あの雨の中、どうしてあんなところで倒れていたのか、知りたいことはたくさんあったからいてほしかった。
 目の色が金…だったな………。


 朝日を浴びて彼の長い銀髪がキラキラとなびく。テオは学校への道を颯爽と歩いていた。ちょうど昨日傘を置いてきてしまった地点に来て自分の傘を探してみたのだが、風に飛ばされてしまったのだろう。あるはずもなかった。
「先生おはようっ!」
「ぁ、おはようございますっ」
「今日はいい天気になって良かったですね」
「ええ」
 通学路で掃除をしているおばさんに声をかけられると笑顔で答える。テオはこの辺の人気者でもあったが、同時に困っている人の手助けをしていたので十分に顔を知られていた。
「あの…」
「なんだい?」
「昨日、この辺で事故とかありませんでしたか?」
「どうだろうねぇ…。物音とかは聞いてないけど雨だったしねぇ……」
「そうですか」
「どうかしたのかい?」
「ちょっと……拾い物をしたので、何か分かればいいなと思いまして」
「ふぅん…。じゃあ他の人にも聞いておくよ。昨日のいつ頃の話だい?」
「たぶん夜。七時から八時くらいの間だと思うんですが…」
「何か分かったら、また教えてあげるからね」
「ありがとうございます。お願いします」
 頭を下げて学校へと歩く。
 あの状態だと最初にそれを疑わなければならなかったのに、僕は何をしているのか……。 何だかいつもの自分らしくない自分に戸惑いを感じる。同時に雨の中、髪を掻き上げたとき見た彼の顔を思い出して、今キュンとしてしまったような気がして激しく頭を振った。
 何だ? 何考えてるんだ、僕は。ありえないね、あんなおじさんっ。
 思ったが、思えば思うほど意識してしまっているようにも思う。
 それはちょっと可哀想だから、で済ましてしまおうと強く思う。だって相手は男だから。
「そうですよ。繁殖能力のない相手なんて相手とは言えませんからねっ」
 言い聞かせるように口にしてみるが、何だか逆効果な気がしたテオは大きくため息をついて無理やり落ち着こうとした。
「おじさんですからねっ。うん」


 その日は絶対定時で帰ると決めていたテオは、早々に仕事を片付けると帰途についた。途中果物屋でバナナを買うと何だか足取りが軽い自分に気が付いて咳払いをした。
「でもいるだろうか」
 それが問題だったが、いなければいないで諦めもつく。テオは家への道を急いだ。

 自宅前。ドアのところで立ち止まったテオはカギで扉を開ける前にノブを回して引いてみた。
 開かない。と言うことは、あの人はまだいると言うことですね。
 買ってきたバナナが役に立つとほくそ笑んだテオは、やっと鍵穴にカギを差し込んだ。「ただいま帰りました」
 室内に入ると中は真っ暗だった。パチッと照明をつけてベッドのあるほうに足を向ける。まだベッドはこんもりとしたまま動きがなかった。
「まだ寝てるんですか」
 近づいてチョンッと指先で相手をつついてみる。だけど反応がないので顔を近づけた。するととたんにガバッと布団が捲れて男が顔を覗かせた。
「おいっ。何で俺は裸なんだっ?!」
「……………起きてたんですか」
「あったり前だっ! そうそう一日中寝ていられるかっ!」
「元気ですね」
「ああっ!」
「文句を言う前に言うことがあるんじゃないでしょうか」
 厳しい顔で腕組みをしたテオが男を見下ろしながら言う。それにビクッとした男が、しどろもどろになりながら口を開いた。
「うっ…ぁ…………あの…その………何か俺、お前に助けられたみたい……で……………ありがとなっ!」
「よろしい。まずはお礼でしょ。うん。ではこれを」
「なに?」
 バナナの入った紙袋を差し出して踵を返す。テオはベッドの横にある洋服ダンスを開けると中から真新しいシャツとハーフパンツを、そして引きだしから下着を取り出すと男の足元に置いた。
「失礼ですが、あなたの服は洗濯しても綺麗になりそうもなかったのでゴミ袋に入れてあります。捨てていいですか?」
「ぁ…ああ。でも俺、着る物がない」
「とりあえずそれを着てください」
「ぅん…………。悪いな」
「ええ」
「ええって………」
 ちょっと苦笑されて、矛先を変えるために紙袋を指さしてみた。
「ぁ、これは?」
「栄養補給のバナナです。嫌いですか?」
「いや」
「ではどうぞ。早く体力が回復するでしょう」
「………お前、いい奴だな」
「ですね。思いの外、自分のお人よしぶりに驚いています」
「………」
「はやく着てください。今から夕食を作ります」
 テオは自分も私服に着替えるとエプロンを付けてキッチンに立った。
 あー、今日は二人分ですね……。
 何を作ろうかと思いながらも鍋に水を入れてコンロに置く。
「野菜スープにフランスパンでいいですか?」
「ああ、構わないよ。っと………おい、これちょっと大きいんだけど」
 振り返ると洋服を着たはいいがダボダボと言うボサボサ髪の男の姿だった。思わずクスッと笑いそうになってしまったが、そこで本当に笑ってしまっては失礼なので、ここはグッと我慢する。悟られないように男に背を向けると無理やり言葉を出したのだった。
「それは単に、あなたのほうがちっちゃいと言うだけの話でしょ」
「………お前感じ悪い」
「お好きに」
 クククッと忍び笑いをする。男はブツブツ言いながらもキッチンの椅子に腰掛けると料理しているテオを見ながらバナナを口に放り込んでいた。テオは手早くスープだけ作ってしまうとヨーグルトとフランスパンをテーブルに並べた。
「ぁ…」
 椅子がないか……。
 今まで一人で暮らしてきたので何もかもひとつづつしかない。テオはちょっと考えて物書きをする机の椅子を持ってくるとテーブルについた。
「ぁ、悪りぃ。俺が椅子に座ってるから」
「いいんですよ。これで事足ります」
 それからコップや皿もバラバラな食卓となったが、二人向かい合って食事を取ることが出来た。
「お前料理旨いんだな」
「作らなければ生きていけませんからね。それよりあなたに質問です。昨日は何故あんなところで倒れてたんですか? もしかしてもしかしたらあなた、浮浪者ですか?」
「人聞きが悪いなぁ。俺…は………どこで倒れてたって?」
「車に轢かれてもおかしくない場所ですよ」
「だからどこ?」
「記憶がないんですか? M町の交差点付近です。上半身を歩道、下半身を車道に投げ出して倒れてました。雨が降ってましたからね。歩いている僕だって見つけられなくてもおかしくなかった。車に轢かれるのは時間の問題だったと思います」
「そっか………。ふぅん……。で、M町ってどこ? てかさっ、ここ……いったいどこなんだろぅ」
 ちょっとだけ気弱な顔で笑った男を見たテオは、それが嘘ではないことがすぐに分かった。
「あなた………記憶とかありますか? 明日にでも医者に行きますか?」
「いや。いやいやいや、そうじゃなくて。実は俺、ただの行き倒れ……だと思う。あまりに腹が減ってフラフラしてたのだけは覚えてるから」
「……………呆れた。じゃあ、あなたは空腹で倒れてたって言うんですか」
「うんまぁ………」
「ここがどこだか分かってないなんて、いったいどこから歩いてきたんですか?」
「色々くるくる回ってたから……」
「そうですか」
 野良猫にはよくあることだ。だからあえて詳しく聞こうとは思わなかったが、こういうのはやっぱり浮浪者と言うんじゃないだろうかと、ちょっと怪しげな眼差しで相手を見る。
「なんだよっ」
「僕の名前は?」
「あーっと………テオ。テオだ」
「ええ。正式にはテオドラ・ルシールと申します」
「ふうん」
「……………あなたは?」
「ぅん?」
「僕は名前を名乗りましたよ?」
「………ぁっ…ああっ! ごめんっ! 俺、まだ名前言ってなかったっけかっ!」
「ええ。ご自分の名前、覚えているなら今ここで教えてください」
「悪りぃっ! 俺の名前は、ダル。本名はダリル・河上・フルシュールって言うんだ」
「ずいぶんいい名前ついてますね。で、お年は?」
「36。お前は?」
「24です。一回りも違うんですか」
「そっ…」
 それは俺のせいじゃないだろっ?! と言おうとしたけど止めた感があるダル。それを見たテオは「いいんですよ」と口にした。
「でも、その髪はどうにかならないんでしょうかね」
 ボサボサの髪をチラリと見ながらスープを傾けると、ダルは自分の前髪を手で掻き上げながらスープにパンを突っ込んだ。
「切れって言うんなら切るよ? でも今まで誰にも切れって言われなかったから切らなかっただけだ」
「じゃあ僕が言ってあげましょうか。切ってください。僕は、だらしのないのが嫌いなんです」
「何言ってんだよ。お前だって髪の毛ダラダラ長いまんまじゃんっ」
「僕はこういう種類なんですっ。これがデフォです。でもあなたは違うでしょ?」
「すっ…鋭いなっ………」
「当たり前です。僕は教師ですからね、仕事柄色んな種類と会ってるので分かります。なので切ってください。分かりましたか?」
「ぃ…イエッサー………」
「よろしい。では明日、休みなので一緒に床屋に行きましょう」
「ぃ…イエッサー………。しっかし、お前って強引そのものなんだな」
「人聞きの悪いこと言わないでください。私は親切そのものなんです」
「うー………」
「洋服も買ってあげますよ?」
「ホントに?!」
「ええ。そもそもあなたの洋服を捨てたのは僕ですしね」
「悪いなぁ……」
 とたんに機嫌が良くなるダルを目の前に、なんてお調子者なんだろう…と思ったテオだった。

本誌に続く