タイトル「CinnamonTime」-2



「テレビ局はどうだった? 面白かった?」
「……ええ」
 事務所に帰ってきて。
 万田さんが他の仕事でいなくなってしまってから、僕は理一さんの隣で暇を持て余していた。
 それを見かねた他の社員の人が「一緒にダイレクトメールを折らないか?」と誘ってくれたので、ひたすらそれに没頭する。
 実を言えば、僕はこんな単調な作業が好きだったりする。
 同じことをしながらも違うことを考えられるからだ。
「聞いてもいい?」
「ぇ……?」
 誘ってくれた若い社員の人が、僕を見ながら浮かれた表情で聞いてきた。
「名前」
「あ、すみません。笹島地史です」
「君は社長とどういう関係の人? もしかして後々デビューとかする人?」
「いえ、そうじゃなくて……」
 いちいち説明するのも面倒臭い気がしたけど、ここで言っておかないと、また勘違いされるといけないから言う。
「弟です」
「弟?!」
 ガタンッと座っていた椅子を倒すほどの勢いで、その人が立ち上がる。
 その音に回りのみんなが振り向いて、理一さんも顔をあげた。
「社長! この人、弟さんなんですか?!」
「ええ?!」
 室内にいた社員がみんな驚きの声をあげる中、落ち着き払っていたのは、社長である理一さんだけだった。
「何か問題でもあるのか?」
「いッ、いえ……でも……!」
 どうやらみんな新人と勘違いしてたみたいだった。やっぱり言っておいて正解だな。
「名字が違うじゃないですか。だって、今このコ笹島って言いましたよ?」
「名字が違うといけないのか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
 どうも不満そうにしている社員たちを前に、理一さんは立ち上がった。するとみんなの視線が彼に集中する。
「腹違いではないぞ。れっきとした私の弟だ。ただ違うのは父親だ。それだけの話だ」
「………」
 たったそれだけの話に何故そんなに驚くのか。
 理一さんは、そういう感じで落ち着いて座り直した。
 言い返すことの出来ない社員たちは、口を大きく開けたまま、今度は僕のほうをいっせいに見つめてきた。
「弟……?」
「……はい」
「…………へぇ……」
 そう言うのが精一杯なように口の端が引きつっている。
 一緒に仕事をしていた社員の人がカタンと椅子に腰掛け直すと、一同は自分たちの仕事に戻ったけど、みんな信じられない…と言った雰囲気が漂っていた。
 年があまりに離れてるからかな…。
 それとも名字が違うからなのかな…。
 色々考えたけど、みんなの驚きようは、僕にとっては不思議でならなかった。
 一緒に仕事をした人は、自分のことを結城友と名乗った。
 年は25だと本人は言っていたけど、それよりも若く見える。
 少し天然の入っているだろう茶色い髪に穏やかな物腰。
 喋り方もおっとりしてるし、いつもにこにこしている感じがする人だ。
「ふぅん。それでね」
「ええ」
「でも僕たちは、何も知らされてないからね。ちょっと驚いたってとこ」
「みたいですね。さっきのみんなの驚きようを見て、こっちが驚いちゃいました」
 二人して手を休めずにニコニコッと笑う。
 僕は、この人のことを嫌いな人っていないんじゃないかなと思えた。

「地史」
「…はいッ」
 仕事が終わった頃を見計らって、理一さんが僕を手招きした。
「何でしょうか」
「もう家に帰りなさい」
「ぇ……」
「まだ手続きとかあるだろう。今母から連絡が入った。家の前で待ってるそうだ」
「あ、はい。じゃあ」
「帰り道は、分かるな?」
「ええ」
 もう……。母さんって……なんでいつも突然なんだろう。
 言われてみれば手続きとかあるんだったなって分かるけど、なんで事前に言っておいてくれないんだろう。
 僕は、少しおかんむりになりながら事務所を後にした。
 歩きだして家まで着く間に、何が必要だったかを思いだしながら足を進める。
 もちろん僕が考えてるのは、僕自身が用意しなければならないものだけだった。
「後は何がいるんだったかな……」
 地面を見ながら歩いていたので、危うく自分のマンションを通り過ぎるところだった。
 一階のフロアに入ると、そこに置かれてある長椅子に母さんが腰掛けていた。
「遅いわね」
「って…急に呼び出さないでよ」
「だって書類見たら、あまり日にちがないんですもん。今から制服の採寸に行くわよ」
「今から?!」
「そうよ。他にも色々用意しなくちゃいけないものがあるんだから、グズグズしないで」
「ふぅ……」
 まったく…。この人には、ため息しか出てこないよ。
 先に立って歩きだす母に続いて、脱力ぎみに今来た道をUターンする。
 途中で太い道に出てタクシーを拾った母さんは、僕を押し込んでから自分も乗り込んできた。
「母さん横暴だよ」
「何が?」
「…………もういいよ」
「ねぇ、彼らとはもう会った?」
「うん。いい人たちだね」
「あんただけ毛色が違うけど、だからこそ可愛がってもらえるんじゃないのかしら」
「………」
 この人ってどういう考え方してんだろう……。
 時々しか会わないから、余計に相手の出す言葉が引っ掛かる。
「陣のほうは売れてきてるから、今は代表作が欲しいんじゃないかしらね。理一のほうも潰されることなく、無事にこれまで来られてるから大丈夫だとは思うけど…」
「母さん!」
「なッ…何よ……」
「理一さんのことなんだけど……事務所手伝えって言ったよね。どうして?」
「どうしてって……そりゃ、あんたもそろそろ男として一本立ち出来るように…」
「それってホント?」
「何よ、ホントって…」
「理一さんの事務所、何か問題抱えてるんじゃないの?」
「ぇ……?!」
 母親の顔がヒクッと引きつったようになった。
 やっぱり何か僕に隠し事があるんだ…。そして母は、それを知ってるんだ。
「母さん。教えてよ」
「あ…たしは……何も知らないわよ。知りたいんなら、本人に聞けばいいじゃない」
「それは、そうなんだけど……」
 まだそんなに親しくないから、聞いてマズい問題だったらどうしよう…と心配になる。
 でもこの調子じゃ母さんもあまり深入りしたくない様子だし……。
 それ以上何も聞けなくなってしまい、僕は塞ぎ込んでしまった。


「必要なものは、これで全部揃ったと思うから。他に入り用な物は、あんたの父さんなり理一になり言いなさいね」
「うん……」
「何シケた顔してるの。頑張りなさい」
「……分かってるよ」
「じゃあね。また連絡するから」
「うん…」
 タクシーの窓を開けたまま話をすると、僕の気持ちなんか関係なく、母さんは去って行った。
 あの人と会うと、大きなため息しか出てこないじゃないか。
 僕はガックリと肩を落として、新しい自宅になったマンションに入って行った。
 本当に必要な買い物だけして帰ってきたから、時間もまだ早い。
 隣の陣さんはもちろん、理一さんも帰ってなくて、広い家の中にポツンとひとりっきりな僕は、与えられた自分の部屋に行き荷物の整理をしだした。
 さっき出掛ける時、慌てて着替えたからクチャクチャになってしまった服がバックの上にある。
 中学の制服だ。
 これももう着なくていいんだな…と思うと、新しい高校のことを考える。
 僕の場合は急に志望校が変わってしまったから、友達らしい友達もいない。
 そういう点では不安が多いんだけど、考えてみれば望月君が一つ上の学年にいるんだから、どうにかなるんじゃないかなって言う楽観的な考えもある。
 とりあえず、これから少しの間は休みだから自由に行動出来る。
 今日中に荷物の整理をして、明日からは理一さんについて事務所のことを少しでも把握しようと思った。

「なーんにも、することがない…」
 早々に荷物の整理が片付いてしまい、リビングのソファーで横になる。
 この家って無駄に広いから他の部屋もまた見てみたんだけど、別段珍しいものも置いてなかったので、探索はすぐに終わってしまった。
「何か作って食べてもいいかな……」
 夜もまだ早いけど、朝食を取ってから食事らしい食事をしてないのに気づく。
 冷蔵庫に何かあるといいんだけど…。
 男の一人暮らしだから期待はしてないけど、買いに行くって言っても、そんなにお金持ってないし…。
 彼が開けた大きな冷蔵庫を見つめると、勢いをつけてソファーから起き上がる。
 スタスタとそっちに歩いて行って、おもろむにドアを開けてみた。
「あれ……。思ったよりもある」
 冷蔵庫の中には、それなりに食材が揃っていた。
 僕としては、すぐに食べられるものが良かったから、大きな冷蔵庫に頭を突っ込んで物色してみる。
 すぐに口に出来そうなものは…ハムとか、チーズとか、漬物とか、酒のつまみになるようなものしかなかった……。
 仕方ないからパタンッとドアを閉めると、カップラーメンとかは置いてないのかとキッチンの扉を次々と開けていく。
 するとキッチンの片隅に、まだ開封されていないカップラーメンが一箱丸ごとしまってあった。
「これ…食べちゃっていいのかな……」
 でも他に食べる物もないからな……。
 一瞬ためらったけど「後で言えばいいや」と箱を開けて一個だけ食べてしまった。
 お腹が空き過ぎてしまっていたのか、一個食べただけで十分満足してしまった。
 それからダラダラとリビングでテレビを見て過ごしていたけど、いつまでたっても理一さんは帰って来なくて…。
 いつの間にか、僕はそこで寝てしまったらしい。
 なんとなくぼんやりとドアが開き誰かが入ってきたのを感じたのを覚えている。
 そして抱き抱えられてふんわりとしたベッドに横に寝かされたのも…。
「初日からこれじゃあな…」
 この言葉も覚えている。
 この声は理一さんだろうなって分かったけど、優しく頬を撫でて抱き締められるような感覚がしたのは……もしかしたら夢だったのかもしれない。
 翌日目覚めるまで、僕はそのことが頭から離れなかった。
 なんせ夢の中でさえ彼が出てきてしまったのだから…。
 夢の中での彼は、僕の体を確かめるように指を這わせ、少し荒い吐息で顔を近づけてきた。
 服を脱がせ、愛しむように素肌に唇を這わせる。
 それは下半身にまで及んで、下着さえ脱がされた僕は、まだ勃起もしてないモノを口に含まれて弄ばれた。
 射精する前に僕のモノは放り出されて、その後ろに続く秘所に舌が這って行く。
 こんなありえない行為を夢で見てしまうなんて、よっぽど僕自身欲求不満なんだろうか…と考えてしまった。
 朝起きると、僕はちゃんと下着もつけていたし、洋服でさえ脱いではいなかった。
 当たり前だ。全部夢なんだから…。
「あ……」
 でもひとつだけ、寝込む前と変わっていたところがあった。
 それは首筋にある赤い跡だ。
「何だろう、これ……」
 知らない間に虫にでも刺されたのかな…。
 あまり記憶にないけど、新しい家に移ったんだからそれもありだろう。
 後で塗り薬を貸してもらおうと部屋を出ると、玄関に靴が脱ぎ散らかしてあった。
 理一さんの……? だよな……。
「昨日は、いつ帰って来たんだろう」
 仕事忙しいのかな…。それとも、いつもそんなに遅い時間に帰ってくるのかな…。
 目にした脱ぎ散らかしたままの靴を整えると、リビングに入って行く。
 だけど、そこに理一さんの姿はなかった。
 まだ寝てるんだ。
 でももう八時なんだけど…事務所行かなくていいのかな…。
 起こしていいのか悪いのか、分からなくてリビングで右往左往を繰り返していると玄関のドアが開く音がした。
 何も言わずにズカズカと入ってくるのは、たぶん…。
「ぉはよーすッ」
「ぁ…おはようございます」
「あれ、理一は?」
「まだ起きてないみたいなんですけど…」
「そっか……。で、地史君は…って、言いにくいから呼び捨てしていい?」
「ぁ…ええ。構いませんけど」
「じゃ、地史。朝ごはんは?」
「いえ。今起きたところなんで…」
「俺と一緒に飯食う?」
「はいッ」
 寝起きで、顔も洗ってないまま陣さんと会って朝食に誘われた。
 なんか凄く嬉しい…。
 今日の彼は真っ白いシャツとジーンズ姿で、爽やかさを絵に描いたってような出で立ちだった。
 僕はそんな彼について隣にある部屋にって言うか、家にお邪魔したんだけど、内心はもうドキドキだ。
「昨日帰り遅くなっちゃってさ。こっちに来れなかったから気にしてたんだけど…調子いいみたいだね」
「ええ、まぁ……」
 陣さんは本当に気さくな人で、僕の肩を抱くと家に案内してくれた。
 ちょっと昨日からスキンシップし過ぎかな…って感じはあるんだけど、まっ、陣さんならいいか…。
 僕も悪い気はしなかった。
「まだ俺も引っ越して来たばかりだから、散らかってて悪いね」
「いえ…」
 全然そんなことなかった。
 陣さんはキッチンに入ると、冷蔵庫から食材を取り出してテキパキと食事を作り出した。
 僕は意外な一面を見るようで、ポカンとしたまま彼を見つめるばかりだった。
「立ってないで、そこ座っていいよ」
「あ、はい」
 造りは理一さんと同じ間取りだけど、リビングとキッチンの間が陣さんの部屋は体面になっていて、そこにカウンターが作られている。
 なんか…喫茶店に来た雰囲気で、中にいる陣さんに見とれてしまう。
「料理うまいんですか?」
「いや、誰も作ってくれないから自分で作るだけ。ウマいかマズいかは食べて判断して」
 きっと陣さんのことだから朝食は洋食だろうと勝手に決めつけていたけど、キッチンの中で手際よく料理しているものは、どう見ても和食だった。
 みそ汁に白いご飯、鮭の塩焼きに卵焼き、のりと漬物が丸いお盆の中に綺麗に並べられて僕の目の前に置かれた。
「どうぞ」
「…すごいですね」
 彼は僕の横に自分の分を置くと、キッチンから出てきて隣の席に座った。
 まだ慣れてないせいか、兄弟ってよりも芸能人が隣に座ってる意識が強くて、自分の動きがぎこちなくなってしまう。
「ぁ…」
「大丈夫?」
「すみません…」
 危うく手にしたみそ汁を零しそうになってしまった。
 陣さんはそんな僕を見て、クスッと声に出さずに笑うと自分もみそ汁を口にした。
「味はどう」
「…おいしいです。……毎朝、ちゃんと食事取られてるんですか?」
「ああ、でないと力出ないし。それより、敬語はもういいからね。普通に喋ってくれよ」
「で、でも……」
 まだ慣れてないのにそんなこと…。それに年上なんだし、そんなの失礼だ…。
「じきにあいつの本性も分かるだろうから言っておくけど、俺たちは地史が思うほど立派じゃないからね」
「ぇ……?」
「地史はさ、理一のこと事務所の社長やっててイッパシとか、俺のこと芸能人で売れてる人とか思ってると思うんだ。違うか?」
「ぅ……そ、それは……」
 当たってる……。でも普通そう思うだろう。
「でもさ、それって一般的に見た見方でしかないじゃん。内輪に入って見ると理一なんかは陰気な奴だしさ、俺なんかはただの負けず嫌いだったりする」
「…そうなんですか?」
「だからその敬語やめろって」
「…すみません……」
「まったく…。真実は早く知ったほうがいいから教えてやるけど、あいつは陰気な上にグータラだからな。今頃スーツのままベッドで突っ伏してるはずだぜ」
「ぇ……」
「酒弱いくせに、接待で飲まなきゃならない時は、いつもそう。朝起きても半日は使い物にならないから、万田さんが代わりにあいつの仕事を処理するんだ」
「そうなんですか………」
 ホントかな…。
 なんて思いながらボソボソと食事をしていると、陣さんが急に顔を近づけてきた。
「信じてる?」
「ぇ?! ええ……」
「……あんまり信じてないみたいだな」
「そ、そんなことないですよ?!」
「いいよ。すぐには信じられないかもしれないから。でも、後であいつの寝室覗いてみれば分かるはずだ」
「はぁ……」
「それよりさ、地史は今日何かする予定とかあるのか?」
「いえ。決まってないので、理一さんと一緒に事務所に行って手伝いでもしようかと思ってるんですが」
「ふぅん。俺さ、今日インタビューいくつか受けるだけだから付いて来ないか?」
「いいんですか?」
「いいけど、頼むから普通に喋ってくれよ」
「すみません……」
 普通にって言われても…そう簡単に友達みたいに喋れるはずもなく、僕は口ごもるばかりで満足に陣さんと話すことも出来なかった……。


 仕事は午後からだと言うので、それまで家に戻った僕は、玄関で靴を脱ぐと洗面所に行って遅まきながら顔を洗った。
 そしてやることもないのでリビングに行こうかと思ったけれど、陣さんの言った言葉が気にかかって理一さんの寝室まで足を向けていた。
 どうしよう……。
 ドアの前で躊躇したけれど時間も時間だし、一度起こして仕事に行かなくていいのかどうか聞かなくちゃとノックしてみた。
 だけど返事はない。やっぱり寝てるのかな。
「失礼します…」
 静かにドアを開けながら室内を覗き込む。
 中は遮光カーテンが閉められていて真っ暗だった。
 しばらく見ていると目が慣れてきて、何となくどこに何があるかが分かってくる。
 真ん中にあるベッド目指して歩きながらカーテンを開けたほうがいいかどうか迷う。
 迷ったけど、相手が眠っているのは分かってるから、ドアからの光だけを頼りに彼のところに行った。
 近づいて行くと、陣さんが言った通り、彼はスーツのまま眼鏡も外さずにベッドに突っ伏して寝ていた。
「理一さん、理一さん。あの…朝なんですけど、仕事行かなくていいんですか?」
「ぅ…ん………」
 顔を近づけて名前を呼ぶと、わずかに反応したんだけど、寝返りを打っただけで今度は丸まって寝てしまった。
「スーツが皺になりますよ」
 よっこらしょっと体を仰向けにしようと肩に手をかけた時、いきなり彼の腕が僕の肩を掴み抱き着いてきた。
「ちょッ! …理一さん?!」
「うーん……」
 これはッ! タチが悪いかも!
 彼は僕を誰かと間違えているのか、寝こけながら背中に手を回し脚を絡ませてきた。
 そして首筋に顔を埋めて唇を押し当ててきたと思ったら、舌を這わせてきたんだ。
「理一さん! 理一さん?! あの! 誰かと間違えてないですかッ?!」
「ぁ…?」
 大声をあげると、ようやく半分目が覚めたみたいだ。
 ずり下がった眼鏡を指であげると、僕のほうをボーッと見つめる。
 そしてゆっくりと焦点を合わせるように僕を見た彼は、顔を真っ赤にしながらズルッと肩の力を抜いた。
 それでも、始めは僕が誰だか分からなくて記憶を辿っている様子だったけど、分かったとたんにバッタリと後ろに倒れ込んだ。
「悪い…………」
「いえ。あの……お仕事はいいんですか? もう九時なんですけど……」
「夜の?!」
「いえ、朝です」
「ああ……じゃあ、まだいい………」
 理一さんは、額に手をやりながら必死になって目を覚まそうとしているみたいだった。
 近くに行くと酒の臭いがしていたから、まだ酔いは醒めてないようだ。
 僕は身なりを整えるとベッドから降り立った。
「カーテン、開けてもいいですか?」
「……ああ」
 遮光カーテンって、いきなり光に晒されるみたいで僕は好きじゃない。
 特に理一さんみたいに、まだ覚醒しきってない体には毒みたいに思えてしまって…。
 ゆっくりとカーテンを開けていく。
 カーテンを開けている途中に思い出したけど、僕って昨日凄い夢を見たんだよな。
 そして首筋に変な赤い跡…。
 僕はリビングで寝たはずなのに理一さんに寝室に運ばれたんだと思う。
 もしかしてもしかしたら僕、昨日理一さんに……?! 
 な、わけないな。ちゃんと服着てたし。
 気を取り直して。
 明るくなった室内は、昨日とは比べ物にならないくらいオヤジっぽい彼が横たわっていた。
 クシャクシャのスーツに、だらしなく引き出されたワイシャツ、解きかけのネクタイに脱ぎ散らかされた靴下。
 そんな彼を見て、僕はそのギャップに驚くってよりも、彼の人間くさい部分を見れた気がして、逆に安心していた。
 だって昨日の彼はホントにエリートサラリーマンって感じで近寄りがたかったから、僕はどっちかって言えば、こっちの理一さんのほうが好き…かな。
 緩んでしまう口元をどうにか押さえて、クルリと理一さんを振り向く。
 彼はまだベッドの上で同じ格好をしていたけれど、意を決したようにグイッと体を起こした。
「……朝食は、もう食べたのか?」
「ええ。さっき陣さんが見えたので、陣さんの部屋で」
「そうか……」
「朝食はどうしますか? 何か食べたい物があれば、僕買ってきますけど」
「いや。食べる気分じゃない。それより今何時だっけ?」
「九時です。ちょっと過ぎたと思うけど……」
「シャワーを浴びる。君はリビングに行きなさい」
「はい」
 まだ抜け切れていない酒のせいでフラフラしながら立ち上がると、上着だけ脱いで部屋を出て行く。
 僕は彼が出て行ってから、脱ぎ捨てられた上着をクローゼットにしまうと、おとなしくリビングに移動した。
 テレビをつけて、見るとはなしに画面を見つめていると、シャワーを浴びた理一さんが腰にタオルを巻いたままの姿で頭を拭きながらリビングに入ってきた。
「地史君……」
「は、はいッ」
「何か飲み物をくれないか」
「何がいいですか?」
「ああ……スポーツドリンク系かな……」
 ドカッとソファーに座り込むと、またガシガシとタオルで頭を拭いて首にかける。
 それからグイッと体を反らせると背もたれに身を任せた。
 彼の体は着痩せするのか、思ったよりも筋肉がついていてガッシリとしていた。
 それに眼鏡をかけていないのか、髪がボサボサで前にかかっていて表情が見えない。
 何だかまたイメージが違うんだけど……。
 思いながらも、冷蔵庫からスポーツドリンクを一本取り出すと彼の元に急いだ。
「どうぞ」
「サンキュ…」
 けだるげに、差し出したペットボトルに手を伸ばしてきた彼は、それを受け取る力も弱々しかった。
 何とか身を起こして屈むと、俯いたまま蓋を開けて一口ゴクンと飲み込む。
 それでもまだ頭がフラつくのか、グッタリと背もたれに凭れかかってしまった。
「具合悪いですか?」
「………あまり良くないね」
「僕……話しかけないほうがいいですか?」
「…悪いね。しばらく、このままにしてくれ……」
「はい……」
 これは相当具合が悪いらしい。
 あまり話しかけると怒りだすかもしれないから、僕はだまって別のソファーに腰掛けて、ついているテレビを見つめていた。
「昨日は接待するつもりじゃなかったんだが……。結局ズルズル引き伸ばされて、連絡も出来なかった。悪いと思ってる……」
「いえ。昨日は……キッチンにあったカップ麺、勝手に食べちゃいました。まだ開けてなかったからいいかな…って迷ったんですけど……良かったですか?」
「……ああ、私は料理は出来ないからな。もっぱら料理は陣まかせだ。奴がいない時は外で食べるか、インスタントで済ませてる。…あれはそのために買ってある物だから自由に食べてもいい。もっと買い足しておかなくちゃな……」
 言い終わると息を整えるように深くため息をつく。
 僕が近くにいると、また話たくないのに無理して話しかけてきてくれるかもしれない。
 少し彼から離れていたほうがいいかもしれない。
 僕はリビングから出て行こうと、そっと立ち上がった。
「僕…自分の部屋にいますね」
「……ああ……」
「ぁ…それから…。今朝陣さんに誘われたんですけど、午後から仕事について行ってもいいですか?」
「……ああ。奴がいいと言うのなら、それもいいだろう」
 ぐったりしながら言う理一さんを残して、自室に入るとベッドに飛び乗る。
 時間までに、まだ十分な余裕があるけど何もすることがない。
 じっくりと自分の部屋を眺めてみると、扉だらけの壁が一面だけあるのが不思議に思えてきた。
 何かが入っていたとしても、理一さんからは何の説明も受けてない。
 何が入ってるんだろう。…その前に、何か入ってるのかな…。ただの収納なのかな。
 ジッと見つめていたけれど、別にそこが何なのか確かめてみるのはいいんじゃないかなと考える。
 ベッドから起き上がった僕は、一面の扉だらけの壁の前まで歩を進めると手近な扉をひとつ開けてみた。
 カパッと開けて90゚開くと、それを奥に収納出来るシステムになっていた。
 そしてその中には、テレビが置かれてあった。
「なんだ、テレビあるじゃん…」
 じゃあ、その他には何が入ってるんだろう。
 俄然興味が湧いた僕は、パタパタとそこいらじゅうの扉を開けてみた。
 中には本とかDVDとかビデオが所狭しと置かれてあって、それが壁一面ぽかった。
 と言うのも、背の届く範囲でしか扉が開けられなかったからだ。
「あーあ、視聴覚室っぽいの……?」
 いわゆる鑑賞ルームのような部屋なのかな。
 僕が来る前は、そんな目的で使われていたみたいだった。
 クルリと背を向けて部屋の中を見ると、取ってつけたようにベッドと机が置かれてあるみたいに見えてしまう。
「いいのかな……」
 この部屋を本当に使わせてもらっていいのかな…と罪悪感に捕らわれてしまった。
 他にも余っている部屋はあるのに、何故ここなのかが分からない。
 聞いてみてもいいんだけど……。
 聞きたいことはたくさんあるのに、何ひとつ出来ていない自分がそこにいた。
「う゛ーん……」



 一、二時間たつと理一さんが動き出すような音が聞こえてきた。
 ようやく体が動くようになったんだと思うけど、あちらこちらにゴツンゴツン当たるような音が聞こえてきた時には、さすがに大丈夫かなと心配になってしまった。
 陣さんとの約束の時間までには、まだあるから少し覗いてみようか、それとも失礼になるかもしれないからやめておいたほうがいいのか…。
 考えたけど、どこか切ってたりするといけないから、ちょっとだけ顔を出そうと部屋を出る。
 理一さんは、もうリビングにはいなくて自室にいた。
「理一さん」
 遠慮がちにドアをノックすると中から「どうぞ」と声がした。
 聞いた感じはマトモな声だった。
 入っていくと、彼はもうスーツ姿で昨日初めて会った時と同じイメージで佇んでいた。
 ただ違うのは、オデコに貼られた絆創膏だけだ……。
「ど、どうしたんですか?!」
「デコか?」
「ええ」
「寝ぼけて歩いてて、どこかで打付けたらしい。擦りむいてるんだ」
「……どこでケガしたのかも分からないんですか?」
「………」
「す…みません……」
 ムッとしたのか、相手が何も言わなくなってしまったので、思わず謝ってしまった。
 彼はゴンゴンどこかに体を打付けながら支度をしていたのか、よく見ると手の甲も擦りむいていた。
 今は、ようやくスーツを着て腕時計をはめるところだったらしい。
 これでよく眼鏡が割れないものだと思ったけど、考えてみればシャワーを浴びてからずっと眼鏡をかけないまま動いていたんじゃないだろうか。
 だから余計にゴンゴンそこらじゅうに打つかってたんじゃないんだろうか。
 でもなんで見えないのに、眼鏡もかけずに家の中を動き回るんだろう。
 それが疑問になってしまった。
「眼鏡はどうしたんですか?」
「行方不明だ」
「僕が起こした時には、してましたよ。シャワーを浴びに行った時に外したんじゃないんですか?」
「地史君」
「はい?」
「私は、これ以上傷だらけになりたくない。ちょっと見てきてくれないか」
「ぁ、はい。分かりました」
 やっぱり…。
 自分が眼鏡をどこに置いたのか分からなくなって、そのまま動いたからあんなになっちゃったんだ…。
 僕は洗面所に急ぎながら、緩む口元を押さえることが出来なかった。
 理一さんって、けっこう「おちゃめ」なところあるんだな…。

「やっぱり洗面所にありましたよ」
「そうか」
 眼鏡を手渡しながら、目はどうしてもおでこの絆創膏に向いてしまう。
 いけない、いけない、と思えば思うほど釘付けになってしまうのは、どうしてなんだろう。
 眼鏡をかけた理一さんとばっちり目が合ってしまって、体裁が悪くなってしまった。
「そんなに格好悪いか?」
「……そ…んなことないです」
「……どうやらすごく格好が悪いみたいだな。剥がしていくか」
「あッ! ホントに、そんなことないですから! して行ったほうが、ばい菌とか入らなくて済むし」
「……君の態度を見てると、そうでもなさそうじゃないか」
「そんなことないです! 僕は……ただ理一さんの意外な一面が見れたなって思って。それでちょっと嬉しくなっちゃって………」
 あんまり本当のことを面と向かって言うのって、得意じゃない。
 僕は言ってから彼の顔がマトモに見られなくて俯いてしまったけれど、彼も彼で、まさかそんなこと言われると思ってなかったらしい。
 しばらく固まってから、体裁悪そうに何度も咳払いをした。
「すまなかった。少し大人げなかったな」
「いえ。僕のほうこそマジマジと見ちゃって、すみませんでした…」
「いや。……これから、もっと私は醜態を晒すと思うが」
「ぇ…」
 まだこれ以上?! と言った気持ちが、たった一言だけで相手に知られてしまったらしい。
 理一さんは僕をジロッと見つめると、次には、その口元をニカッと笑ってみせた。
「君は知らないかもしれないから教えておこうか」
「……」
「大人って言うのはな、ある頂点を境にどんどんガキに戻っていくもんなんだよ。特に誰も見てないようなところじゃ……」
「そ、そうなんですか?」
「君も気を付けたほうがいい。私は人の見てないところじゃ、何をしてるか分からないからな」
「そんなぁ……」
 そんなの困る…。
 もっと変な一面を見ることになってしまったらどうしよう…と困り顔をしていると、そばで理一さんがクスクスと笑い出した。
 また、からかわれたんだ。
「冗談やめてくださいッ」
「だけど、人は色々な面を持ってるからね。これから私は、もっと君の驚くようなことをするかもしれない。覚悟しておいてくれよ」
「ぇ…ええ……」
 それって脅しだろうか…。
 ちょっと怖くなってしまったけれど、本質的には悪い人じゃないから安心は出来る。
 僕はちょっと顔を引きつらせながら、頷くしかなかった。
「おっと、時間が時間だな。私は事務所に行くから。君は、じゃあ予定通り陣と一緒に行動するといい。終わったら家まで奴と一緒に帰って来るんだよ」
「はい」
 僕の返事を聞きながら、理一さんは腕時計で時間を再確認して部屋を出て行った。
 僕はと言えば、その場で彼を見送るしかなかった。
「あッ……!」
 彼がいなくなってようやく気がついたけれど、昨日万田さんからも、母さんからも聞き出せなかったことを理一さんに聞くのを忘れていた。
「でもな……」
 何だかあまり知られたくないことみたいだし…もうちょっと親しくなってからのほうが賢明かも……。
 もうちょっと親しくってのが、どの程度のことを示しているのか、なんてのは聞かないでほしい。
 だってそんなの自分だって分かってないんだから……。
 それと一緒に、父さんに連絡も入れてないのに気づいて、僕は慌てて携帯から連絡を入れていた。
 一緒に暮らすことになった父親違いの兄さんは、いい人だよって……。
 本当のところ、事実まだ分かってないけど悪い人じゃないってのは分かるから、それでいいと思う。
「父さん、僕ここで頑張って行こうと思う」
 そう言うと、父さんは「大丈夫さ、母さんが選んできた人の子だからね」と優しく言ってくれた。
「そうだね」
 僕は答えたけれど、父さんって本当に堅実な人だと思う。
 だからこそ、僕は父さんの子で良かったと思うんだけど。
「また何かあったら連絡するよ」
「ああ、そうだね。くれぐれも一緒に暮らす人には、迷惑かけないようにするんだよ」
「分かってるよ、じゃ」
 まったく父さんって……。
 苦笑しながら電話を切ると、何だか空しくもあり、寂しくもあった。
「父さん……」
 呟いてから、それを振り切るように頭をブルブルと激しく振ってみる。
 大丈夫さ、僕はもうそろそろ独り立ちしなくちゃ行けない時期に来てるんだから。