タイトル「ゴミ捨て場で美青年を拾ったモブの話」試読
木枯らしに交じって、雪が降ってきてるんじゃないかと思うほど寒い夜。
木実公親(このみ きみちか)はいつものように会社から家に帰ろうと駅からの道を歩いていた。時間としては遅いほうで、商店街の店はもうみんな閉まってしまっている。そこを通り抜けて住宅街に入る一歩手前、ゴミ置き場のゴミに寄りかかってひとりの男が寝込んでいた。
「……」
酔っ払いかな……。
思っていったん通り過ぎたけど気になって引き返して覗き込んでみる。近づいても男は寝こけたままピクリとも動かなかった。
「……あのっ。大丈夫ですか?」
「……」
声をかけてもピクリともしない。
このまま置いて行ったらきっと凍死する……。
ガシガシ肩を揺すって声をかけてみたけど、よく寝てるのか返答がない。
「どうしようかな……」
警察に連絡したほうがいいのかな……。
腕組みをしてから頭をカシカシと掻いて考える。
「寒いもんな……」
そして俺の家は近い……。
考えに考えたけど面倒事は避けたい。特に警察は面倒な気がした。だから木実は相手の後ろに回ると脇に手を入れてバックで家まで引きずって行こうとした。
その時。その時になってようやく相手がパチリと目を開けた。
「あっ!」
「ぁ、起きた」
「ぁっ!」
「大丈夫ですか?」
「はっ?」
「酔ってます……? こんなところで寝てちゃ風邪ひきますよ」
「こんな、ところ…………?」
「ええ。こんなところ」
言われて初めて自分のいる場所を確認するように男は辺りを見渡すと、とたんに身を翻して土下座した。
「ぇっ」
「お願いですっ。助けてくださいっ!」
「ぇ……?」
「あのっ、俺今金持ってなくて。腹減って倒れたって言うか……」
よくよく見てみると男の服装はちょっと薄汚れてるようにも見えた。
もしかしてゴミ捨て場でゴミを漁ってたとか?
そうなると相手はホームレスかもしれない。どうしようか……と考えていると、土下座していた男が顔をあげて潤んだ瞳で見つめられた。
「ぁ……」
その顔がとても綺麗で凛々しくて、とてもホームレスには見えなかった。
でも……。
「誰かが助けてくれるのを見越してそこで倒れてた、とか言うんじゃないだろうね」
「いえ、そうじゃなくて!」
「じゃなくて?」
「たまたまって言うか……。目が覚めたらあなたに抱えられてました」
「……」
「お願いですっ。俺、今猛烈に腹減ってて……。今あなたに見捨てられたら……」
たぶん死ぬ。
そんなことまでは口にしなかったけど懇願する顔からそう言いたいのは見て取れた。だから木実は「どうしようか」と言う思いと共に「仕方ない」と言う思いから彼を連れて家に帰ることにしたのだった。
〇
木実の家は賃貸のマンションだった。
築年数多しの一階。防犯上どうなのかとも思うその部屋は、一階と言っても実際は二階同等。窓を開ければ街路樹の葉が目の前に見える場所だった。でもいいのは緑が多いよね、と言うことくらいで、その木を伝ってベランダに入るのはたやすいことだと住んでいる本人さえ思ってしまうほどしっかりした街路樹がそびえていた。
「いい家ですね」
「うん。住むには支障ないよ」
古いし、そんなにいい家とは言えないんじゃないかと思っているのだが、言われれば満更でもない。
「まずお前……。やっぱ汚いよな」
「すんません。あそこにいたからちょっと臭うかも」
「うんまぁ。それに服も汚れてるし……。まずは俺、風呂に入ってからお前な。湯が汚れると思うから」
「はい。すんません……。あの……俺、何か口にしたいです」
「ぁ、そうだった。腹減ってるんだったな」
「とても」
「じゃあちょっと待って」
何かすぐに食べられるものはあったかな……と入ってすぐのキッチンで考える。
寒いから暖かいほうがいいだろうし……。
それで牛乳をマグカップに入れるとレンチンして手渡す。
「そこ座って飲んで」
「ありがとうございます」
「俺はその間に風呂の湯を入れてくるから」
「はい」
「お前、名前は?」
「一季です。沢本一季(さわもと いちき)」
「ふーん。じゃあ一季でいっかな」
「はい」
「俺は木実公親。木実でいいから」
「分かりました、木実さん」
「うん」
今までここで誰かと会話らしい会話なんてしたことなかった。だからちょっと変な感じがするんだけど、何となく孤独から救われたような気がして微笑んでしまう。
しっぺ返しとか食らわないといいけど。
言葉通り、まず木実が風呂に入ってから一季が風呂に入った。
「あいつ俺よりちょっと大きいからな……」
汚れた服をまた着せるわけにもいかないので木実は自分の持っている物の中から彼が着られる物を物色した。下着のサイズはどうだろう。合ってなくても今日は履いてもらうしかない。パジャマ代わりに用意したのはグレーのジャージ上下だった。これなら多少ダボッとしているからサイズは大丈夫だろうと思えた。
「すんません」
「小さいか……」
「はい、ちょっと……」
小さいのを着てます感がアリアリとするけど、ないものはないから仕方ない。
自分の物とは別に男の着ていた物を洗濯機にぶち込むとスイッチを押す。今日中に洗濯して干しておけば明日の昼くらいには着られる状態になるんじゃないかと思っての行動だった。
炊飯ジャーにあったご飯で丼物を作ると後は寝るだけとなって気が付いた。
「ぁ……布団ひとつしかないや…………」
「……」
「どうしようかな……」
口にはしたけど方法はひとつしかなかった。
木実はよく知りもしない、拾ってきた男とひとつの布団で眠ることになったのだった。
「すんません……」
「しょーがないって」
拾った以上しょうがない。うん。俺が拾ったんだからしょうがないんだって。
自分に言い利かせながら背中合わせで眠りにつく。だけどいつの間にか掛け布団の引っ張り合いになって木実が負けてしまい最後には相手をこっちに向かせて抱き着いた。
「こっち向けよ。俺が寒いだろうがっ!」
「すんません……」
そんなこんなで初日が終わる。
明日も残業あるってのに、こんなん拾った俺ってサイアクかもしれん……。
暖かさも加わって木実はやっと深い眠りについたのだった。
〇
「じゃ、行ってくるから」
「うん。……いってらっしゃい」
知らない男を拾ったとしても、だからと言って会社を休んでいいわけじゃない。働かなくちゃお金入らないし、入らないと家賃も払えないから頑張らないと。
玄関で挨拶をして家を出る。
「出がけの挨拶か……。新鮮だな」
それに相手の顔がちょっと心細い感じがして、より新鮮だった。それでも百%信用してるわけじゃないから貴重品は身につけた。
『たぶん昨日と同じくらいの時間に帰宅すると思うから』とも伝えた。これで帰ったら、もういませんでした、となっても後悔はしないと誓う。でも何でか駅への道は軽い足取りとなっていた。
木実は急行で二駅行ったところにある工場に勤めていた。
昼勤と夜勤、昼夜勤があったが、木実は昼勤のみを選んで働いていた。以前は昼も夜も働けるほうが実入りがいいので、そちらを選択していたのだが体を壊してしまったので、今は昼勤のみになっている。でもこうも残業が多いとまた体を壊すんじゃないかと心配もしている。ほどほどと言う言葉が通じるのなら、ほどほどにして欲しいとは思うのだが、今のところそれは通じないらしい。
それでも今日は早く帰りたいかな……。
彼には昨日と同じと言ったが、昨日と同じじゃ疲れ具合も昨日と一緒になってしまい聞きたいことが聞けないかもしれない。木実はその日一日、何故彼があんなところにいたのかが気になって色々深読みしていたのだった。
〇
「ただいま」
「ぁ、お帰りなさいませ、ご主人様っ」
おいっ。
「何その言葉。てか、何してんの?」
「晩御飯。作ろうとしてます」
「そうなんだ……」
「早いね。昨日と一緒って言ってたから、日にちが変わるくらいかと思った」
「うん。その予定だったけど、心配になって早く帰ってきてみた」
「帰って来たらいないとか?」
「まあ、それも有り得るだろ?」
「うん、まあそうかもだけど……。俺は最初からそんなつもりはなかったけど?」
「そう。なら、良かった」
彼・一季はパジャマ代わりのスエットのままキッチンに立っていた。たぶん食材らしい食材はないと思う。なのに健気に何かを作ろうとしていたのは、自分が腹が減っていただけなのかな? と徐々に思う。靴を脱いだ木実はシンクにある物を確認しながら手にした袋をキッチンテーブルの上に置いた。
「一応スーパー寄って来たけど」
「ほんと? 嬉しいっ! なになに、何があるの? 何買ってきたの?」
「ぇっ? えっと……だな」
言いながらマイバッグの中から色々取り出す。何が好みとか何を作るとか考えなしに安い物をカートに入れて、帰ってきてから考えるのが木実のスタイルだった。だから袋の中には目的もなく買った豚肉のスライスと値引きされた人参とキャベツ、ウインナーに総菜のコロッケと菓子が数点入っていたのだった。
「これで何作るつもりだったんです?」
「特に決めてない。安かったから買ってきただけ。えっと……今日だったら、コロッケを主にキャベツの千切りをしてウインナーを焼く。そして豆腐の味噌汁を作って完成、かな」
「駄目ですね」
「は?」
「人参も豚肉もちゃんと使いましょうよ」
「豚肉は今日コロッケあるし、人参は日持ちするから別に今日じゃなくても……」
「豚肉は明日にするとしても……。プラスで人参サラダとか作りませんか?」
「ぇ、別にいいけど……」
別に人参は嫌いじゃなかったからサラダでも全然良かったのだが、料理に関してはもしかしたら相手のほうが長けているのではないかと思った。
「では作ります。木実さんは風呂にでも入ってきてください」
「風呂、湧いてるの?」
「はい。追い炊き出来るっていいですよね」
ニッコリとされて思わずキュンとしてしまう。
こいつは……どうやら別世界から来たんじゃ、なさそうだ。
美男子なのに変に王子様気質でもなく、自己主義でもない。いたって普通の思考回路を持っている奴なんじゃないかと知り、ちょっと嬉しくなった木実だった。
〇
風呂から出るとあらかた食事の用意が出来ていて、そのマトモさから一目置く。
「へぇ、出来るんだ」
「はい、一応。俺もこのくらいは出来ますよ?」
「じゃ、ご相伴に預かりましょうか」
「別に大した物作ってませんから」
「……」 うん、まあ。主菜は総菜コロッケだしな。
コロッケの横に置くはずだった千切りキャベツはなくなっていて、代わりにボイルされたキャベツの葉があった。
「これ何?」
「ああ。ほんとは千切りがいいんだろうけど、人参のサラダが千切りだからキャベツは湯がいてみました」
ちょっと胸を張っているように見えるところが可愛く見えてしまう。木実が思っていた食卓とは多少違っていたが、楽して食べられるのは気分が良かった。
実際彼が作った人参のサラダは初めて食べるもので旨かった。
「料理、やったことあるんだ」
「自炊程度ですかね」
「このサラダ、旨いよね」
「飲食店とかしてた?」
「あいにくです。……もしかして探り、とか入れてます?」
「俺はしてもいい立場だと思うけど?」
「うんまあ。でもしてませんよ」
「じゃあ今まで何してたの? どういう人?」
「今は……言いたくないです」
「じゃあ、これからどうするつもり?」
「どうもしませんけど?」
「ぇ、ずっといるつもり?」
「それなりの働きをして、平行してどうするか考えようと思ってます」
「俺の家はナントカ施設とかじゃないよ? 役所で保護してもらったら?」
「生活保護ですか?」
「一般的には」
「俺は身分を証明するものがないので、それは無理です」
「……あんまり聞きたくないんだけど、俺は君に拘っていい人?」
「どうでしょう」
「どうでしょうって……。君は一体何者?」
「ちょっと記憶にないです。勘弁してください」
「ぇっ、記憶がないの?」
「ごめんなさい」
「じゃあ名前も思いつきとか?」
「いえ、それは本名ですけど」
「けど? けどそれから先は言えないの?」
「正確には言いたくないってことです。察してください」
「ぇ……。それって随分都合のいい話だよね」
「はい、ごもっともです」
「でも言いたくないんだ」
「すんません」
笑顔で言われてしまうと返答に困る。
害はないんだろうけど、大丈夫なのかな……と対処に困る。
結果、出た答えは「迷惑かけません」と言う念書を書かせることだった。
たぶん俺は甘い……。
●
一季と一緒に住むようになって初めての休み。
それまで彼は自分の着ていた服とパジャマ代わりにしているスエットでどうにかしていた。
自分の着ていた服はともかく、パジャマのほうは丈が合っていなのが一目瞭然で、まるで兄が弟の服をどうにか着てますよ的な感じが否めなかった。
外に出ないからいいじゃないかと言われればそれまでだけど、丈の合ってないものは不釣り合いだし第一似合わないだろ?
と言うことで、今日は二人して服を買いに行くことにした。
「最低限のものしか買えないけど我慢しろよ」
「……こんな無駄な出費しないほうがいいんじゃない?」
「でも替えとか必要だろうし、手足がニョーンって出てるスエット姿って変だから」
「変なの?」
「うん、とっても。だから最低限の着るものを買いに行くよ」
「分かった……」
二人して駅前商店街までの道を歩く。彼のほうが木実よりも頭半分くらいはデカかったから歩幅も違うのか、何だか忙しない。
「早いんだけど」
「すんません」
「お前さ、女の子に対してもこういう無頓着なことやってんの? だったら嫌われるよ?」
「……俺、今まで彼女とかいたことないんで……」
「ぇ、そうなの? でも妹とか母親とか……って言いたくないか」
「すんません」
「いいけど。俺だって平均身長くらいあるんだからなっ。お前が大き過ぎるだけだから」
「はい。でも俺だってスーパーモデルほどはないし、いたって普通サイズだと思いますよ?」
「はいはい。分かりました。では、どうか俺の歩幅に合わせてください。でないと、俺が散歩されてる犬みたいに見えると思うから」
「そうですか?」
「ですよ、きっと」
「木実さんは考え過ぎだと思いますよ。誰もそんな風に見てないと思うし」
「俺がそう感じるんだから、そうなのっ」
「はい、すんません。俺のほうが犬でした」
もう一度「すんません」と言いながら肩に腕を回してくる。
「何これ」
「ぁ、二人三脚のノリで」
「……ぁ、そ」
ニコニコしながら言われると邪険に出来なくなる。
この日、二人は昼過ぎから服を調達しに出かけて下着や靴下・パジャマ代わりのスエットを調達しリユース店で普段着を買うと、ついでに夕食の食材も買って帰途に着いた。
電車にも乗らない近所周りの買い物だったが、それでも十分楽しかった。人と一緒にいると妙に和む。特に何故か彼といると落ち着く気がした木実だった。
〇
「あのさ」
元々言いたいことはあった。
容姿が整っているのは初めて見た時から分かっていた。だけど、それをわざわざ隠すような生りをしているのは何故か。
服だって本来のスタイルより随分ゆったりしている物を選ぶし、髪が一番の問題点でもあった。
彼・一季の髪の色は木実のように真っ黒ではなく、どちらかと言うと天然で茶色い感じ。光に透けるとキラキラと綺麗に輝くのがとても綺麗だと思ったほどだ。
「一季君。そろそろ髪とか切りに行こうか」
「お金かかるので大丈夫です」
「でもさ、その髪型。明らかに見にくいよね?」
「だったら縛るので大丈夫です」
「……」
「木実さん。俺のことはいいからご自分のことに金を使ってくださいよ」
「……たとえば?」
「ぇっ……。ぁっ……と……いい服を買うとか、靴を買うとか……。腕時計でもいいし、何なら車でも」
「まったくお前は無茶ばかり言うよね」
「……」
「俺はそこまで稼いでないから、車なんてとても手に入れれる分際じゃございません。日々努力節制して家賃を払うのが精一杯な身なんですよ?」
「そ……れは…………」
まるで分かってますとでも言いたいような顔をする相手に畳みかける。
「今は俺のことを言ってるんじゃないでしょ。お前のそのヌーボーとしている頭のことを言ってるんだけど」
「……」
「もし、俺とこれからも一緒にいたいと思うなら、髪の毛もちゃんと前が見えるくらいにはサッパリとして欲しい」
「…………イエス、マスター……」
本当は切りたくないのかな……とも思ったけど、顔の半分を垂らした髪で隠しているような面持ちはいただけなかったのでお願いする。
いい返事が聞けたので安く上がる散髪屋に連れて行くと感嘆の声が上がってしまった。
「ぇ……あのっ……」
「モデルじゃありませんからっ」
「ぁっ……すみませんっ、つい……」
店の片隅でそんな会話を聞き、木実は思わず口端を緩めてしまった。
「だから言ったでしょ?」
「何が?」
「言われるから」
「ん?」
「何かされてました? とか、モデルさんですか? とか。俺、そういうの慣れてないから言われても困るんですよ」
「美しさって、時に罪なんだな」
「またそんなことを言う。いいですか? 俺はわざと顔半分隠してるんです。いちいち説明したりするの面倒でしょ?」
「うん。でももう髪型整ったから」
「……」
「一季は一目見た時から綺麗だった。服汚くても綺麗に見えるのってなかなかないと思うし、逸材なんじゃない?」
「冗談っ。俺は……あんまり目立ちたくないんです」
「それも理由がある?」
「……別に」
「そう……」
本当は本当に目立ちたくないんだと察する。
洋服も一通り揃えてもらったし髪までカットしてもらい、すっかり一般人なった一季は散髪屋の帰りに驚き発言をした。
「俺、そろそろ街の探索とかしたいと思います」
「ぁ、うん。そうだね。そろそろ近くを歩くのもいいかもしれな」
「じゃなくて。働き口、探そうと思います」
「ぉ、おーーー!」
「何ですか、その驚きようは」
「何、その心境の変化」
「いや。俺みたいなのにここまで良くしてくれたってのに、俺ちっとも一人前じゃないし」
「別に俺は無理強いはしないよ。お前は家のことちゃんとやってくれてるし、飯旨いし。帰ってから食事作るのって案外面倒だから助かってるんだ。それに洗濯とか掃除とかもやってもらってるんだから、凄い助かってる」
「俺……あんまりマトモに働いたことないから少しづつだと思うけど、とりあえず動いてみようかなと」
「分かった」
一季がやる気になった。それはいいことなのか否か。
今は分からないけど、好きにすればいいと思った。彼が外出するのを考えると、どうしても鍵を渡しておかないといけない事態になる。なので入居時ふたつ貰った鍵のひとつを一季に渡した。
「ぇ、いいの?」
「ないと外出出来ないだろ? 今さっき気づいた。ごめん」
「そんなのいいけど、俺にこれ渡していいの?」
「不便だろうし、鍵開けたままだともっと物騒だし」
グイッと押し付けると申し訳なさそうに、でも嬉しそうに一季はそれを受け取った。
翌日から、食材の調達も彼に任せることにしてお財布を渡す。
「こんなに信用しちゃっていいの?」
「必要最低限しか入ってないから無駄遣いしないように」
「分かった」
しかしここからが問題で、木実は彼に散髪してもらったことを「どうなの……?」と思うようになったのだった。
〇
仕事を終えて家に帰ると明かりが点いていなかった。
「あれっ……」
玄関先でそっとノブを回してみると鍵もかかっていたので、「もしや……」と思いながらも自分の鍵で室内に入る。内側にある明かりのスイッチをパチッと押すと靴を脱ぐ。
玄関に彼の靴があったので、いるのにまず安堵する。
「一季、 いるんだろ?」
「……います。ごめんなさい。今夕食の支度をします」
隣の暗い部屋からくぐもった声がする。木実は布団で横にでもなっているのかなと彼の体調のほうを気にしていた。
暗い部屋の明かりを点けると盛り上がっている布団の横に屈みこむ。
「どうしたの? 体調良くない?」
「いえ。考え事してたら寝ちゃっただけです。すんません」
むっくりと身を起こすと木実と向き合う。
「今支度しますね」
「いいよ。今日は俺がやるから」
「……」
「今日は外出したの?」
「はい」
「探索はした? 駅までの道とか……」
「木実さん。俺、帽子買っていいですか?」
「……何で?」
「やっぱり落ち着かないって言うか……」
「……」
「今日、スカウトされました」
「ぇ? 誰に? どこで?」
「これ」
ポケットから一枚の名刺を差し出されてそれを受け取る。
「久家エージェンシー。晴美照善(てるみ てるよし)?」
「……」
「えっと……。まず経緯から聞こうかな」
「昼過ぎに買い物がてら駅まで歩いてたら、前から来たサラリーマンみたいな人に話しかけられて……」
「それでこれ貰ったんだ」
「はい」
有名な人が在籍してる事務所らしいが、どうしたらいいのか分からなくて困惑してると「本物のスカウトだから!」と人気俳優の真野真司(まの しんじ)に電話して……直接テレビ電話したらしい。
「真野真司って、あの真野真司?」
「はい。あの真野真司でした」
「へぇ……」
住所を見てみると近い。これは信憑性があるな……と思ってみるが、話はそこでは終わらずに「近くだから今から事務所に」と誘われて怖くて逃げて帰ってきてしまったと言うことらしい。
「それでこれ?」
「だって……偽物だったら怖いじゃないですかっ」
「でも真野真司と話したんだよね?」
「タクシー拾うって」
「あー、駅のあっち側だから、かな……」
この住所だと駅のあちら側。栄えているほうのエリアだった。
駅のこちら側はどちらかと言えば住宅街だし栄えてもいない。手っ取り早く事務所に連れて行きたかったんだろうな……と考えるが、それが一季には恐怖だったらしい。
「で、帽子って? 顔を隠すため?」
「そうですけど」
「でも顔だけ隠してもあんまり意味ないと思うよ」
全体から滲み出る雰囲気までは隠せないから、とも伝えたが本人は自覚ないようで首を傾げられて終わってしまった。
〇
翌日からまた一季は外に出たいとは言わなくなった。木実も無理強いはしなかった。また振り出しに戻っただけだと思えばいい話だ。
「じゃ、いってくるね」
「いってらっしゃい」
「あのさ、今度の休み。帽子を買いに行こうか」
「ぇ……?」
「帽子があればまた出る気になるかもしれない、だろ? また一緒に買い物に行こう」
「……うん」
スカウトされたから出たくないのか、それとももっと別の理由があるのかは分からなかったが、二人なら大丈夫なのかな? と誘ってみる。感触は良かったので次の休みにさっそく出かけようと予定を立てる。木実自身も彼といるのが安心出来たし心地よかった。
〇
「お前ってさ、遠慮って言葉を知らないのな」
「いや。この場合それはないでしょ」
毎日のことだが、毎晩寝るのは熾烈な争いが生じる。何故なら寝るための布団がひとつしかないからだ。
最初はお互いに掛け布団を引っ張り合って言い合いしても、結局初めての時のように身なりが小さい木実のほうが一季に抱き着いて眠りにつくと言うのが常だった。
「こっち向けよ」
「嫌ですよ。もう眠いし」
「それを言うのは俺のほうだよっ」
グイッと相手の肩を掴むと無理やりこっちを向かせる。そうしておいてギュッと抱き着くのだが、抱き着いただけではうまく寝られないので脚も相手に絡ませる。だけどその姿がいつもプロレスでもやってんじゃないかと言うほど変だと自分でも思っていた。思っていたが、普通サイズの布団ではこうでもしないとうまく落ち着かないのだ。
「お前は俺の抱き枕なのっ!」
「立場としてはそうかもしれないですけど、事実上は俺が木実さんを抱いてる感じですっ」
「そうかよっ!」
「そうですよっ!」
そんな言い合いをしばらくしてからお互いの首元に顔を埋めて眠りにつく。寒いから暖かいし、安心出来たのだった。
俺の布団なのに……。
●
「さて。今日は一季君待望の帽子を買いに行こうと思います」
「待望じゃないです。もう家にある木実さんの帽子借りるのでいいです。貸してください」
「嫌です。何故なら今から買いに行くからです」
「別に何でもいいですってば」
「いいから、いいから。今日はさ、駅のあっち側に行ってみようよ」
「ぇ、それって……」
もしかしてあの事務所に行くとか?
とたんに一季の顔が不安に曇る。
「ばっか。ただの好奇心だよ。こんなこと滅多にないじゃん? 別にそこにお邪魔するわけじゃない。ただ本当に存在するのか確かめたいだけ。なっ、いいだろ?」
本当にただの好奇心だったし、どうせなら駅のあっち側で買い物もしたかったからだ。駅のあっち側はおしゃれな店が多い。そこで気に入った帽子があるかどうかは分からなかったが、この場合多少高くても彼が気に入れば購入しようと心に決めてのことだった。
「分かりました。でも気に入った帽子あったら、高くても買ってもらいますからねっ」
「任せとけって」
ポンっと胸を叩いて嬉しさを表す。これで堂々と名刺の事務所探索に出かけられる。
で、何だ? ってことでもないんだけどね。
ただの答え合わせをしてみたかっただけの木実だった。
駅裏から駅の表側に歩いて十分。
そこから放射線状に伸びた道の一本に足を運ぶ。こちら側は新しいビルもある代わりに脇道に入ると昔ながらの古い建物もふんだんに存在する。まるで新しいビルがニョキッと生えているような感じだった。その中でも一部が鏡のように光を反射するような建物があり、そこがお目当てのビルだとすぐに分かった。
「あそこのビルのワンホールが事務所らしいね。変わったビルだな……」
「……」
「ぁ、見に来ただけだから」
「……分かってる」
「もしかして心細い?」
「そんなことないけどっ」
帽子を買うと言う名目でこっち側に来たので、今日一季はまだ帽子を被ってはいない。だからか、あまり乗り気じゃない顔つきが家を出てからずっと続いてるのだった。
「にしても凄いよね。一季あんなに立派な会社からスカウトされるなんて」
「……もう見たんだから満足したろ。早く帽子買いに行こう」
「うん、ごめん」
もう一度珍しいビルを見上げると踵を返して駅ビルにでも行ってみようと歩き出す。
「あそこには、こっちの情報は何も伝えてないんだろ?」
「うん」
「ならこっちから連絡しない限りしつこく言われることもないだろうから安心だね」
「うん」
「じゃ、まじめにウエイターとか探してみる?」
「まだ何するかは決めてないし。人前に出るのは嫌かも」
「帽子買いたいくらいだもんな」
「分かってるなら、それ以上言わないで」
「ごめん」
ちょっと臍を曲げて口を尖らせている一季に軽く体当たりをすると並んで駅まで歩く。近道だからと言う理由で脇道に入って古い街中を歩いている時、出会ってしまった。
「ぁ……」
「ああ、この間の」
目の前にいたのは、この間一季がテレビ電話で話したと言っていた大物俳優・真野真司(まの しんじ)だった。
彼はテレビや映画・CMなどで活躍しているが、芸能人自体を生で見た二人、と言うよりも木実のほうが動きが止まってしまうほどの驚きようだった。
「来たんだ。いや、嬉しいねぇ」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「芸能人って本当にいるんだ……。ぁっ、すみませんっ」
言ってしまってから、自分は部外者だと言うのに気付いて慌てて口を手で塞いだ。
「君は? えっと……」
「俺が居候させてもらってる家主です」
「そうなんだ」
よろしく、と笑顔を向けられて思わず叫んでしまいそうになるのをグッと抑えて激しく頷く。
「事務所、誰もいなかったの?」
「いえ、行ってませんから」
「何で? ここまで来て何言ってんの?」
「見に来ただけですから。この人が事務所あるトコ見てみたいって言うから」
「だったら中まで見ようよ。ほら、君も一緒に」
言われながら肩を抱かれて事務所への道を引き返す。
真野は木実と一季の間に入って両手に花のごとく二人の肩をガシッと抱いて離さなかった。
でも一季のことを考えるとこれは途中で失礼するのが賢明と考えた木実だったが、ガシッと掴まれた肩を放してもらうことが出来ずに結局事務所に通じるエレベーターに乗り込んでしまっていた。
「ぇっ……と……」
「見るだけ、見るだけ」
「……」
何を言っても解放しもらえそうもないのを察した木実はチラリと一季を見たのだが、間に真野がいるので意思の疎通が出来ないどころか顔を見るのも十分に出来ないくらいだった。
ウイーン……とエレベーターの上がる音だけが静かに響く。
十階が事務所で、エレベーターはそこ直通の専用だったとボタンを押されてから初めて知った。そしてエレベーターの扉が開くと、そこはもうワンフロア事務所と言う形になっていて、人気者の真野が入ってきたせいか、フロアにいたみんなが一斉にこちらを振り向いて挨拶してきた。
「おはようっ」
「おはようございますっ」
「おはようございます!」
口々に明るい笑顔が飛び交う。真野は二人の肩をガシッと掴んだまま奥へ奥へと歩いて行った。
「ぁ、ここは企画考えてるところ。マネはもう少し奥にデスクあるから」
「あのっ、俺帰ります」
「ここまで来てるのに?」
「別に興味ないしっ」
「だったら何であんなに近くまで来たの」
「だからこの人が見たいって言うから、付き合って見に来ただけですから」
「だったらオマケ。オマケだと思って事務所見て行きなよ。あ、おい晴美! いたいた。この子に名刺渡したの、覚えてる?」
「ぁ、はいはい。わざわざ会いに来て下さったんですか? 光栄だなぁ」
デスクで書類を片付けている手を止めてスーツ姿の男がひとり、真野のほうに近づいてくる。その顔は本当に嬉しそうだった。
「ちょっとどんなところか見に来ただけですっ。そしたらこの人に捕まっちゃって……」
「うん。捕まえた。駐車場に車置いて事務所行くまでの間に落ちてた」
「落ちてません」
「その方は?」
「一緒に住んでるらしいよ」
「恋人さんですか?」
「いっ、いえ! 同居人ですっ! って言うか、部屋主です。こいつはただの居候でして……」
「あ、保護者的な?」
「ぁ、そうですね。そんな感じです」
「だったら好都合です」
「俺、自分の意志で来てませんけど?」
「そうなんですか?」
「まあ。今日は俺がホントにこんな近くに芸能事務所なんて存在するのか確かめたかっただけで……一季はその気はなくて……ですね」
これは一季のためにも是非言っておかなければと木実が口を挟む。
「でしたら今日は見学だけってのは、どうでしょう」と晴美が明るく言う。
「…………ならいいけど」
渋々了承する一季にホッと胸を撫で下ろす。
ごめんな、一季……。
「一般的に考えて、君ならその辺で働くよりも十分稼げると思うよ。それに、ちゃんと寮だって用意出来るし。そしたら居候なんてしてなくても良くなるんだから……」
「それは俺が決めることだし、俺は木実さんのところを出るつもりもない」
「ぁ、そっかそっか。別にね、今日は見学だけだし、至急決めなきゃいけないことでもないしね」と手早く晴美は訂正した。
事実木実から見ても一季はこの仕事には向いている容姿を持っていると思う。ただ本人にその気がないだけで、それが重要なんだけど。
「ここは主に打合せとか企画を出す場所だから、見学できるエリアも少ないと思うよ」
「じゃ、後頼むね」と真野が時計を指差して晴美に託す。
晴美は二人を連れていったんエレベーターのところまで戻ると階段を使ってひとつ下の階に案内してくれた。
「ここは稽古場とか会議室、配信室、とかレッスン室が設けられてる。所属しているタレントたちがいるのはこっちのほうが多いと思うよ」
「ふーん」
「……もし、もしもだよ。君がここで働いてもいいなって思うなら」
「思ってないから」
「うん。もしもって話なんだけどね。レッスン料は無料なんだ。けどそれじゃあ生活出来ないから、現役のお付きをして稼いでもらってるんだよ」
「お付き?」
「君なら真野君に付いてもらうのが一番手っ取り早いだろうけど、要するにアシスト係みたいなヤツだよね」
「……」
「君ならすぐにモデルとして働けると思うけど、抵抗あるんだよね?」
「だからその気がないって言ってんじゃん」
「うーん……」
「でもそのお付き、とか言うのはちょっと興味あるかも」
「ほんとっ?」
「それ、表に出ないんだよね?」
「うん。裏方だからね」
「お金出るんだよね?」
「出来るだけ多く出すように会社と交渉するよ。ぁ、立場はバイトってことだけど」
「……」
どう? と言った表情で一季がこちらを見てくる。
業界でも表に出ない仕事ならそんなに気合入れなくても大丈夫だろうし、何よりお金が稼げる。ちょうど働きたいと思ってる時だったので、ある意味ラッキーだと思えた。でもすぐに結論を出すことは控えて、今回は木実の携帯番号を教えて帰路に着いた。
駅までの路地を歩きながら隣の一季に尋ねてみる。
「付き人、してみる?」
「俺に出来ると思う?」
「どうだろう。やってみないと分からないよな……。でも」
「やってみるだけの価値はある?」
「その気があるのならね」
「考えてみる」
「無理しなくていいからね」
「うん」
〇
結局こだわりたかった一季の帽子は適当な店に入って適当な値段のものをチョイスして家に帰った。
一季もそうだが、木実も上の空状態でその日は終わったように思う。電話番号は教えたが、相手からかかってくることはなかった。そんなこんなであたふたしている内にあっという間に一週間近くが過ぎようとしていた。
あれから、一季はあの日適当に買ったキャップを深く被って買い物に出かけるようになっていた。木実から見ると頭隠して尻隠さずみたいな感じで、いくら顔を見せなくても背の高さや体付き、醸し出す雰囲気で周りの人には誰だかすぐに分かってしまっていると思う。が、そこはあえて言わない。言わないほうが、彼が安心するからだ。
「今日も残業?」
「続いてるから今日は定時で帰りたいと思ってるけど、行ってみないと分からないな」
「分かった」
そしてこの日を最後に彼はいなくなった。
いたって普通の日々の中でバイトも後は心構えひとつで出来たと言う時に、だ。
試読終わり