タイトル「仮/取り立て波留麻の惚れ薬」
昭和になって社会情勢がちょっぴり変わったのを機に、うまく行く者とそうでない者に明暗がつくようになってきた。
だいたいは後者になるので金を借りた者は慌てふためき、クモの子を散らすように逃げたりする。そして貸した者は取り立て屋を雇ってそんな奴らを取り立てる。そんな仕組みが社会に確立されるようにもなってきた。
取り立て屋はやくざとは違う。やくざは縄張りがあるから広範囲で動けないが、取り立て屋はどこにも属さない。だから重宝されるのだ。
今日も徳井波留麻(とくい はるま)はその取り立てで忙しく家々を回っていたのだった。
この時代、ワイシャツにベストとスーツ。革靴で決めているのは目立つ。特に波留麻のようにガタイがデカイくて外国人のように綺麗に洋服を着こなし、なおかつ顔もいいと嫌でも世間は放っておかない。街行く婦女子が波留麻を見て顔を赤らめたりざわめくのは、いつものことだった。だが二十を当に過ぎた身としては、それで浮かれることなどなかったのだった。
「兄貴、今日もモてますね」
「……」
隣からそんなちょっかいを出してきたのは唯一の部下である三下の貞彦だった。貞彦は珍しく洋服が嫌いな男だったので、世間が着物から洋服に移行している時期だと言うのに着物にパッチ・草履と言う出で立ち。それに今話題の中折帽を被って悦に入っている男でもあったのだった。年は二十ちょっと前。波留麻と一緒に並ぶと見劣りしてならないので、いつも数歩後からついて来ると言う感じだった。
時間はすでに昼を大きく回っていた。回る場所はきちんと決まっているわけではないので、後一カ所回ったら今日は終わりだろうと思えた。
これから行くのは、このご時勢でまるっと財産を取られた元大金持ちのところだった。家主は財産を取られた時点で心臓発作を起こし亡くなってしまっていた。残された奥方は自分が路頭に迷うと分かると取り乱し手に負えなくなった。唯一の跡取りである息子は病弱で、そんな母親を押さえることすら出来なかったのだ。
家の中を荒らされることは、すなわち残された金目のものがゴミと化してしまうのを意味する。それを阻止するためにも波留麻は二人をそこから離すことを考え一般の住居に移したのだった。しかしそこは今まで贅沢な暮らしをしていた奥方には適応しなかったようだ。何もかも違う現実に耐えられなくなり、すっかり参って寝込んでしまった奥方を病弱な息子が面倒をみる。ここに来てそんなおかしな光景が広がっていた。
今日はその母親を病院に移す日だった。
貞彦はそこまでする必要があるのかと怪訝な顔をしたのだが、波留麻は意に介さなかった。
「兄貴、何でこの家族にだけそんなに優しいんですか?」
「いいんだよ、これで」
「でもっ」
「……」
気に入らなかったらついて来るな、とでも言うように少しだけ波留麻の歩く速度が早くなる。貞彦はそれを自分のせいだと察して即座に声をあげた。
「すみませんっ。余計な口出しして」
貞彦が両肩をあげながら中折帽を被り直す。
波留麻は彼が言いたいことなど百も承知だった。ふだんの自分ならこんなことは絶対にしない。それどころか負債を抱えた親父が死んだ時点で一件から手を引いているところだ。なら何故今回は三下も驚くほどの手厚い施しをしてやっているのか。
貞彦には教えていないが、波留麻はこの息子を以前から知っていたからだ。彼の名前は仙崎悠一(せんざき ゆういち)。たぶん自分よりも少しだけ年下だろう。病弱なせいか元々なのか、彼は町中の男とは全然違って見えた。何と言おうか……。男だと言われれば男なのだが、女だと言われればそれでも通ってしまいそうな……。そんな雰囲気を持っている男だったのだ。
波留麻はそんな彼を自分のものにしたかった。だから今はまるで一流品を質流れで一番に、しかも格安で手に入れた気分だった。問題はこれからだ。相手にも気持ちがある。でも先手必勝でなければならないのも分かっている。だからここは強行突破だ。相手の気持ちなど考えていては先がない。力づくでモノにしてから考えればいいかと踏んでいたのだった。
●
低所得層の住む三軒長屋の一番端の部屋。
鍵など、かかるかかからないかも怪しげな部屋は、台所をする土間と小さな板の間、そして奥に寝所にもなる四畳半の畳の間があるだけだった。
悠一は一番奥の部屋で綺麗に布団を畳むと寝間着のまま正座して猫の額ほどしかない庭を眺めていた。肩より少し長い髪が今にも風にそよぎそうになっているのを見ると後ろからギュッと抱き締めたくなる衝動に駆られる。波留麻はそんな気持ちをおくびにも見せずにポーカーフェイスを装った。
「こっちを向け」
「……何故です?」
「礼くらい言ったらどうだ」
「タダより高いものはありません。何かあくどいことを考えているから、あなたは私にこんなに親切にするのでしょう?」
クルリと波留麻のほうを見た彼は、口をへの字に曲げて目を吊り上げていた。その顔は怒っているのに心細さが伝わってくるような、実に波留麻の心をくすぐるものだった。
「お前が俺に疑心を抱いているとしても、礼くらい言うのが人としての礼儀だろう?」
「……」
「事実に対して礼を言え」
さあ言えと言わんばかりに一歩その部屋に脚を踏み入れる。悠一はチラッとこちらを気にしたが、うろたえることなく振り向いた体をもとにもどした。
「………感謝します」
「何に対して?」
「………ここを世話してくれたことや、母を入院させてくれたことに対して」
「うん。それは正しい。坊ちゃま。出来れば最初にそれを言ってほしいね」
悠一の後ろでわざとドカッと音を立てて座るとあぐらをかく。が、悠一はもう振り返ってはくれなかった。
「……」
まぁいい。
最初はこんな会話さえままならなかったのだから善しとしよう。波留麻は背広のポケットから煙草を取り出すと口に咥えてライターを取り出した。火をつけようとしたところで彼の体に触ると思い煙草を咥えたまま悠一の背中を眺めた。
ここに来た当初、彼は何を言っても返事をしてくれず会話は成り立たなかった。だから始めは『この元金持ちは庶民を馬鹿にしているのか?』とさえ思ったのだが、実は彼は彼なりに焦っていて、この環境を把握し一生懸命順応しようとしていたのだった。しかし元金持ちと言うヤツは波留麻たちには分からないことが多々あって厄介だった。まず食事が作れない、風呂も沸かせないどころか湯さえ沸かせない。もっと酷いのは、母親など洋服さえひとりで着替えられないのだ。
この分だと尻まで拭いてやらなければならないのか?! と眉を顰めていると、その間に悠一はちゃんと学習していた。一度教えたことは次からはちゃんとひとりでやったし、やろうと努力していた。それに引き換え母親は頑なに金持ちの体裁を崩さなかった。そのせいで息子より体調を崩し早々に病院行きになってしまったわけだ。
波留麻は土間でお茶の支度をしだした貞彦に声をかけた。
「貞彦」
「へぃっ」
「今日はもういいぞ」
「えっ? だってまだ……」
「……」
「わ…かりましたっ。じゃ、今日はこれで失礼しますっ」
手にしていたやかんをそそくさと戻すと大きく一礼して障子の貼ってある引き戸を出ていく。二人だけになった部屋は、外の音がよく聞こえて話をしなくてもいいくらい間が持てたのだった。
悠一は知らないだろうが波留麻はちょうど一年ほど前、彼と出会っていた。歩道を歩いていた波留麻の前に高級車が止まり、そこから淑女をエスコートするために出てきたのが悠一だったのだ。もちろん彼は波留麻に用事があるわけではなくて、そこにあったレストランに入るために車を降りて出てきたのだが、波留麻は出てきた淑女よりもエスコートする悠一のほうに気を取られていた。
細身の体に仕立てのいい背広がよく似合っていた。それに身のこなしが綺麗で中性的とも言える顔も案外好みだったのだ。しかし当時同性に心曳かれることなどなかった波留麻はうろたえた。そしてその気持ちをないことにしたのだった。気の迷いだと抹殺したのだ。でも再び出会ってしまった時、もうごまかしは効かなかった。
夕方になって心地よい風が吹いてくるようになる。だが夏ももう終わろうとしている今、悠一の体には触るのではないかと思えた。波留麻は立ち上がると悠一にかまわず庭に続く障子をパタンと閉めた。『どうして?』と顔をあげる悠一に何も言わずに今度は布団を敷きにかかる。
「何をしてるんですか?」
「もう寝ろ。夜風は体に触るだろう」
「私は元気ですよ? それより、貞彦さんを帰してしまって……私はどうやってご飯を食べればいいんですか」
「それは悪かったな。後で飯屋に食いに行こう」
「一緒にですか?」
「お前に金はないだろう」
「そうですが……」
それなら尚のこと、どうして今布団を敷く必要があるのだろうと悠一の顔が怪訝になる。
「後でって、どういうことです?」
「……」
「…あなたの魂胆は何ですか?」
小首を傾げて聞いてくる仕草がたまらなく好きだ。波留麻は敷布団だけ敷くと悠一を力任せに布団の上に引っ張った。
「あっ…! なっ…にするんですかっ!」
「色々調べた。お前の父親は陰間が好きだったそうじゃないか」
「…だからっ?!」
「俺もあやかりたいと思ってな」
「言ってる意味が分かりませんっ! 私は陰間ではないですし、それは父の趣味でしかありませんっ!」
布団に引っ張って覆いかぶさると寝間着の紐を解きにかかる。勢いよく寝間着の紐が引き抜かれて暴れているせいで着物がほどよく左右に割れる。波留麻の視界には肌着と下着をつけた男の体が現れて、その喉元がゴクリと上下に揺れた。
「私の言ってる意味、分かりますかっ?!」
「……」
「父は父、私は私っ。私は陰間ではありませんしっ、今後それになる予定もございませんっ! それともあなたは私を陰間として扱うためにここに連れてきたんですかっ?!」
「そうではないっ。そうではないが…」
「だったら退いてくださいっ! ったくもぅ!」
有無を言わさず押しのけられると波留麻は尻餅をついていた。悠一は布団の上で座りながら即座に寝間着を直しにかかっていた。口にした言葉が悪かったのは重々承知だ。だが波留麻は悠一と早々にそういう仲になりたかったのだ。
「謝らないからな」
「そうですか。でも私はあなたの性処理役にはならないですよ」
「……」
「聞きますっ。あなたは陰間が必要なのですか? それとも私が必要なのですか?」
「……お前だ」
「…でもまさかその考えがあって、こんなに良くしてくれているんじゃないですよね?」
「……」
「やっぱりそういう魂胆ですか」
「そういう魂胆って……。俺はお前が好きだからっ」
「好き? 私とあなたとは金取りと出がらしの関係以外何もないじゃないですかっ」
「出がらしって……」
「別に卑下しているつもりはありませんっ。働けと言われれば働きますからっ。でもあなたの陰間は嫌ですっ。と言うか、私は陰間にはなりたくありませんっ!」
ふぅぅっ! と髪の毛を逆立てる勢いで言われて驚きとともに面白さを感じた。
これは今までと違うな……。
今まで波留麻が思っていた一面とは違う彼の言動にたくましさと嬉しさと興味を駆り立てられた。波留麻は親指で唇を触りながらニヤリと笑っていた。
「いいだろう。それならそれで俺のほうに向けると言う手もあるしな」
「ないですっ。そんなことは絶対にないです。私は殿方に仕える気はさらさらありませんっ。これまでもこれからもっ」
鼻息荒く「ふんっ!」とそっぽを向く。それを見た波留麻は彼を可愛いと思い、余計に自分のものにしたいと思ったのだった。
「服に着替えろ。飯を食いに行こう」
「着替え? あなたの前でですか?」
「今までだってそうしてきたじゃないか」
「それはあなたが私を変な目で見ていると思ってなかったからでしょ。分かった時点で嫌ですっ」
「じゃあ背中を向けてるから着替えろ。腹が減っただろう」
「それは…そうですが……」
「だったら早くしろ」
ふふんっ…と口元に笑いを作ったまま悠一に背中を向ける。ちょっとたじろぐ悠一を見ると思わずにんまりしてしまう。波留麻は彼に背中を向けながら手で顎を摩ったのだった。
どうしよう。どんどん奴が好きになっていく。
●
貞彦を帰してしまったせいで外に食事に出掛けるはめになった。今まで母親と一緒に食事をさせていたせいか病弱だと言うイメージが定着してしまっていたが、悠一は以前波留麻が見た時と寸分違わず美しく、案の定街には溶け込めていなかった。長袖のワイシャツにズボン姿なのに育ちのせいか妙に目立つ。悠一は疑り顔で波留麻の後ろを数歩遅れてついてきていた。
「そのしかめっ面をどうにかしろ」
「私はしかめっ面なんてしてませんよ」
「じゃあ言い直そう。笑え」
「おかしくもないのに笑えないでしょ」
「ふんっ」
天の邪鬼めっ。
思いはしたが、だからこそ面白いのだ。波留麻は彼が自らの手で裸体を晒し、身悶えるのを待とうと思った。
「好きなものを頼め」
「ええ。でも何が何だか分かりません」
街の食堂で壁に貼られたメニューを見つめているのだが文字だけではよく判断出来ないらしい。波留麻は適当に彼の分も食事を頼むと向かい合う悠一を眺めた。
「久しぶりの外はどうだ」
「どうだって……。私のいたところとはあまりに違いすぎます」
「でもこれからはこういう世界で生きていくことになる。もっとももっと下の世界に下がりたいなら、それも可能だけどな」
「……嫌な言い方ですね。それはあなたの言うことを聞かないといけないと言うことですか?」
「現状、聞かないよりは聞いたほうが賢い大人になれると思うが?」
「それに返答は必要ですか?」
「いや。答えはひとつしかないからいらない」
「……」
「お待ちどうさま。日変わりランチと得ラーメンふたつですね」
トントンッと頼んだものが置かれると見る間にテーブルの上が食べ物でいっぱいになる。悠一は湯気の立つそれらを見てゴクリと喉を鳴らしたが、次に眉を片方だけ上げて波留麻を見た。
「おいしそうですが……これをふたりだけで食べるんですか?」
「そうだが?」
「私は、この麺だけで十分ですよ?」
「それなら後は持ち帰れ」
「え? 持ち…帰るん…ですか?」
「そんなことも知らないのか。食べられなかったものは持ち帰って家で食べればいい。庶民のたしなみだ。今は食べたいものだけ食べてみろ」
「……分かりました」
波留麻が箸立てから箸を手に取るとラーメンにコショウをかけて食べ出す。それを見て同じように食べ出した悠一は一口すすると感嘆の声をあげた。
「おいしいっ!」
「だろ? 金持ちはラーメンなんてもの食べないだろう」
「似たようなものは食べますが、これほどおいしくありません…」
「それは良かった。しかし早く食べないと麺が伸びる。伸びると不味くなるから無駄口叩かずにさっさと食え」
「ぇ…ぁ、はい」
まるで生き物ですねと嬉しそうな顔をして食べる悠一を見ると、こちらも笑顔になる。波留麻は彼を自分のものにするのももちろんだが、これからの彼の成長を見るのが楽しみでもあった。
とりあえず終わり。
20121126