タイトル「犬契約」-序

 大学を卒業する時期になっても就職が決まらなくて、いよいよ学生寮を出ていかなくてはならなくなっていた男がいた。
「どうする……」
 これといって手に職もなく、第一前提として、なくてはならない金もなかった。
今年で25歳になる海図一葉(かいず いちよう)は、これでは路頭に迷うしかないのか…と公園で困り果てていたのだった。
「期限迫ってるしな…」
 今週中には荷物をまとめて出ていかなければならないのだが行き先がない。
「困った……」
 友達の家に転がり込むと言う手しかないのか? 
 しかしそれも長続きはしない。
せいぜい持っても一、二週間だろう。
その間に金を都合つけるとしても引っ越しするだけの費用はとうてい無理。
一葉はまた振り出しに戻って頭を抱えると言う行為を繰り返していた。

 季節は春先。
 だけど風はまだまだ冷たくて、路頭に迷うには絶対に向いていない季節だった。
一葉はベンチから立ち上がると仕方なく寮に帰ろうとした。
 広い公園なのでそこを出るために遊歩道を歩く。
途中犬の散歩をする老人とすれ違ったが、さっきからひとつだけ気になっていたことがあった。
それは一葉が座っていたベンチのすぐ近くにポツンと座っていた男がどうやら後ろからついてきているようだったのだ。
最初は気にならなかった。
だけどすれ違った犬を見ようと振り向いた時、男と目が合ってしまい意識しだしたのだ。
「誰だ?」
 どこかで会った男だろうか……。
 思い返してみてもまったく見当がつかなかった。
一葉はもう一度振り返って相手の顔を確かめてみたかったのだが、ためらいからそれは出来なかった。
その代わり歩く速度が早くなる。
 意識…し過ぎか?
 それなら簡単に振り返れるはずなのに、それが出来ない。
どうしようか…どうしようか…と思いながらも一葉は足を進めていた。そして公園を出てしまうと自然と駅への道のりを歩く。

 公園を出てしまうと相手は必ずしも自分と同じ道を選ぶとは限らない。
だからきっと後ろの男ももうついてきてはいないだろうと思った。
思ったが、ほんの少しある確立に不安な気持ちになる。
 交差点を渡って何の気無しに後ろを向くと、さっきより近くにその男はいたのだった。
「なっ!」
 ギョッとして勢いよく前に向き直る向と、今度は立ち止まって相手をやり過ごそうと考える。
近くにあるジュースの自動販売機でジュースを買うふりをして男が通り過ぎるのを待とうとポケットから小銭を出す。
 男は一葉に話しかけるでもなく後ろを通り過ぎると駅のほうに歩いていった。
 良かった……。
 やはり自分の思い過ごしだったと安心すると改めてジュースを買おうとボタンを押す。
寒かったので迷わずホットコーヒーを買うと下の口から取り出して近くのベンチに腰掛ける。
 温かい缶を両手で握ると暖を取ってからプルトップを開けてグビッと一口飲み込んだ。
「君」
「ぐっ…ゲホッ! ゲホッゲホッ!」
 落ち着いて一口飲んだら視界にいきなりさっきの男が現れたのだ。
ビックリして飲んだものが変なところに入り込み思わず咳き込んでしまう。
一葉はゲホゲホと咳き込みながら涙目になって相手を見上げたのだった。
「あんたっ…! 何だよっ、さっきから!」
「……」
「聞いてんだろうがっ!」
「うん。まあ……。話は君の咳き込みが落ち着いてからってことで」
「ぅ…」
 それもそうだがっ……。
 落ち着いてなんて相手に言われると癪に障る。
そもそもこいつを気にしたせいでこうなったんだから責任取れよと言いたいところだ。

 しばらくするとようやく落ち着いて話が出来る状態になった。
一葉はちゃっかり隣に座り込んでいる男を横目で盗み見た。
 年はちょうど自分の親と自分の間くらい。
十歳くらい年上かな…と推測する。別に普通のオヤジだが、ちょっと小洒落ている。
でも出会いが出会いなので警戒心しか沸かなかった。
オヤジはつまらなそうに何度も小さくため息をつくと一葉が落ち着くのを待っているようだった。
「もう…いいかな」
「あ、はい」
 思わず返事をしてしまった。
一葉は内心「しまった…」と思いながらも相手の話に耳を傾けた。
「つかぬことを聞きます、が……君は今、住むところに困ってる?」
「えっ…?」
「あっ、いや……。さっきブツブツ言ってるのが聞こえたものだから…ね」
「俺…口に出してました……?」
「ああ。困ってるようだったから…ね。それに、僕はそれを打開する策、を知っているんだ」
「………」
「教えて…欲しくない?」
「欲しい、けど……」
 欲しいけど、何かからくりがあるんじゃないかと疑ってかかる。
だけど男はそんなこと気にもせず、教えてほしいに決まってるとしゃべり始めた。
「実は実はなんだけど…ね。僕は今、同居人を探してるんだ」
「同居人?」
「そう。詳しく、聞きたいと思わない?」
「でも俺、出す金もないから困ってるんですけどっ?!」
 少々怒りぎみに言ってみるのだが、男はまた一葉の言葉を聞かずにしゃべり始めた。
「よく聞いて。よく」
「……」
「僕はお金を出せなんて一度も言ってないんですけど…ね?」
「……」
 それが本当なら、それはずいぶん調子のいい話だなと訝しい気持ちがMAXになってしまう。
それが顔に出てしまったのだろう。
男はつまらなそうに口を尖らせると子供のように首を傾げて一葉を見てきた。
「君は疑り深い男…だね」
「当たり前でしょう! 見も知らずの人にそんなこと突然言われても信じろって言うほうが間違いだっ」
「だからよく聞いてと言っているでしょう。
僕は何も慈悲の気持ちからそう言ってるわけじゃないよ。ちゃんと話を聞きなさい」
「…はぃ」
「僕は今、同居人。いわゆるシェアリングを提供出来る人間を探しています。
住まいのオーナーは僕なので、いわゆる業者は通しません。
そしてシェアリングを求めているのは僕の犬として生きてくれる人間です」
「………い…ぬ……?」
「ええ」
「犬ってどういうことだよ」
「今まで飼っていた犬が引退してしまったので、候補者を探しているところなんです」
「引退…って……。まさか死んだんじゃ……」
「まさか。彼は僕よりいい主人が見つかったので、そちらに行くと言うことで。
僕は彼が幸せならばそれでいいと決断したまでです。なので今僕は独りぼっちです。
僕も早くいい犬が見つけたいと、このように足を棒にして日々街をさまよってるんですが…」
「それでどうして俺なんだよっ。俺にその要素はないと思うけどっ?!」
 ぶっきらぼうに言うと、男はそんなことはないと言うように笑顔を返した。
「人は心にSとMの部分を持っていると言う。
君は今Sの部分を見せているけど、時にはMの部分を見せることだってあるでしょう?」
「そりゃ…」
「これから君は僕のところにくればきっと君のいい部分を引き出せると思うよ? 
それに賭けてみる気はないかい?」
「犬として?」
「そう。それに君、僕のところに来れば住むところに苦労はいらないよ? 無償だ」
「…」
「ただ、制約はある。それに従ってくれれば君は自由、だ。どうする?」
「どうするって……」
 その制約が何なのか…。
知りたいけれど知りたくない。
迷うだけの余裕はないのだが、それでもすぐには返事は出来なかった。
一葉は返事をためらった。
「制約は簡単だ。一日の内数時間、君の時間を僕のために使って欲しい」
「え?」
「夜九時からシンデレラの魔法が解けるまでの三時間。
僕のために犬として仕えて欲しい。それが出来るなら、ここまで来てくれるかな」
「…」
 男はポケットから一枚の名刺を取り出すと一葉に握らせた。
「じゃ」
 答えを出す時間をくれているのだろうか。
その名刺には住所と電話番号・それに男の名前が書いてあった。
「鳥羽三角(とば みかく)……。何だよこの名前。三角(さんかく)って……」
 笑い飛ばしたかったが、それは出来なかった。
一葉は手渡された名刺をずっと見つめて考えていた。
とりあえず終わり。
タイトル「犬契約」-序