タイトル「恋も仕事も」試読。
小さなデザイン事務所を構える瀬尾勇剣(せのお ゆうけん)の所には、現在やっかいなお荷物が転がり込んできていた。
それはかつて自分がいた会社の先輩でもあり、現在は唯一の取引相手である会社の人間でもある柏木南砂(かしわぎ なさ)だった。
彼とは配置されていた部署こそ微妙に違ってはいたが、同じフロアで顔を合わせることもしばしばあった。勇剣よりも二つ年上の27歳だ。
優しげな面持ちに少し長めの甘髪、筋肉質ではないけれど適度に引き締まったボディは、その外見の良さから俳優かと思わせるほどだが、それはあくまでも外見から見た彼だったりする。
黙ってそこにいれば一端の美人なのに、いざ話すとびっくりするほど口が悪い。まだ会社にいる頃にはそんなに目立たなかったが、勇剣が会社をやめて事務所を開くとそれは全開になった。
毎度その破壊力には参ってしまうのだが、逆に会社にいる時よりも彼が身近になった分、勇剣は自分を押さえるのに大変苦労しなければならなくなっていた。と言うのも勇剣は彼が好きだったからだ。
いいところも悪いところも全部合わせてまるっと好き。そういえば聞こえはいいのだが、二人の間にはもっと違った事情もある。それは彼がすでに人の物だと言うこと。そして自分はその相手も知っていると言うこと。プラスこの気持ちは自分の独りよがりだと言うこと。と言うわけで、勇剣は現在進行形で蛇の生殺し状態だったりする……。
そんな勇剣の気持ちなどお構いなしに、南砂は同居中の彼氏・松城沛人(まつき はいと)とケンカをしたとかで、昨晩から自宅兼事務所に勝手に転がり込んできて、今もふて腐れてベッドの中で眠り込んでいた。
「はぁ………。人の気も知らないで…………」
勇剣は今やっと仕事をひとつ終えたばかりだった。
提出は明日の午前中。クライアントは自分が働いていた会社、つまり南砂が働いている会社でもある。世間一般から見ると勇剣の立場は立派な独立だが、実際は体のいい下請けでしかない。まだ実力らしい実力もないのに自分の力を信じて独り立ちしたのは去年のこと。それから何も進歩してないように思えるのが目下悩みの種だ。
「先輩……もうちょっとあっち行ってくださいよ。俺、寝られないじゃないですか……」
「ぅ……ん……………」
寝ている彼の体をギューギュー押して、どうにかスペースを作るとベッドに潜り込む。
最初から二人で寝ることなど考えないで購入したベッドは、壁側じゃないほうが圧倒的に不利だと言えた。最初はうまく潜り込めたと思っていても、少したつと追いやられて結局は床に転がるはめになる。今日もそのパターンになるのかドキドキだが、人の温もりは嫌いじゃない。ましてや好きな人の温もりなら尚のことだ。後ろからしっかりと彼を抱き締めて目を綴じた。
「んーーー」
南砂の匂いを嗅ぎながら浅い眠りにつく。あっと言う間に睡魔に襲われて体の力が抜けた時、肩を押されてあっさりと勇剣は床に転がり落ちた。
「………………ってぇ……っ……………。って! 先輩っ!」
「…………」
「先輩っ!」
「んだよぉ……っさいなぁ…………俺は寝みぃんだよ…………」
「んなのは俺だって同じですよっ! だいたいそれ、俺のベッドなんすけどっ?!」
「分かってるよ、そんなの……………。来い。温めてやる」
「…………そこから押されて今ココなんすけどね、俺」
「んーーー。面倒な奴だなぁ………。俺がここを退けばいいのか? 寒みぃなぁ、寒くて死にそうだよ勇」
媚を売るような眼差しで見られた勇剣は、肩で大きくため息をつくしかなかった。
「今寒いのは俺なんですけどね、先輩」
「………ちぇっ。だいたいこのベッド狭めぇんだよっ。もっと大きなの買えよっ」
「先輩がそこで寝るのを想定してませんから、ベッドはその大きさでちょうど良かったんですっ。部屋も広くないですしね」
仕方なくスペースを開けた南砂の横に潜り込んだ勇剣が、面白くなさそうにそう口にする。相手に背を向けてさっさと眠りにつこうとするのに、こういう時に限って南砂は執拗だ。
「なぁなぁ、俺がこれより大きいベッド買ったらここにいていい?」
後ろから縋り付くようにくっつかれて耳元でささやかれる。本当ならここで涎を垂らしてイエスと言いたいところだが、それは現実が許してくれない。
「ここにこれ以上大きいベッドは入りませんっ。それに、先輩の帰るところはここじゃないはずですしっ!」
「んだよーっ! いいじゃんかよっ! ちょっとくらいジョークに付き合えよっ!」
「………」
ジョークでは済まされない。ジョークじゃなかったらどんなにいいのか分からないくらいだ。勇剣は心でそう叫ぶと唇をギュッと噛み締めて丸まった。
「ギュ…ヤッ! ちょっ…! お前、俺潰れるだろっ! 狭めぇんだから、そんな格好すんじゃねぇよっ!!」
バシバシ叩かれて、仕方なく棒切れのように真っすぐになる。
「よーしよしよしっ、どぅどぅ……」
「………俺は馬じゃありませんって………」
あー泣かせてぇ…………。けど、泣かせる前に今泣かされているわ、俺………。
胸のモヤモヤを沈まようとして深呼吸をすると、もう一度眠りにつこうとする。だけど今夜も勇剣に落ち着いた眠りは訪れそうもなかった………。
「腰が痛てぇっ! 腰が痛てぇっ! 腰が痛てぇ、ってばっ。勇剣っ!」
「そんなのお互い様でしょーが。先輩、いい加減家に帰ったらどうなんですかっ」
「それはお前が口出すことじゃないっ。俺はあいつが『私が悪ぅございました』って詫びを入れに来るまで、帰るつもりないんだからなっ!」
「って、俺相当迷惑なんすけど………」
「じゃあ何か。俺がお前の夜のお供とかしてやれば、ここにいてもいいのかよっ」
「そんなこと言ってないでしょ? それよりね、先輩。ここんとこ部屋が狭くて仕方ないんですが」
「もともと狭いんだから仕方ないだろう」
「違うでしょ。どんどん先輩の荷物が増えていってるからでしょうが! ここ出来てから来るたびに何か荷物置いて行くのやめてくださいっ」
「ブツブツ言うなっ。まったく肝っ玉の小さい野郎だなっ」
「………なにが小さくてもいいんですが、居候が世帯主より大きな顔するの、やめていただけませんか?!」
「ごーめーんーねーーーーだっ! 勇っ、そこのネクタイ取れっ!」
「はいはい」
「ったくよぉ……。今日は朝から忙しいわけよっ! 朝イチ会議なんて信じられねぇってのっ! 勇っ! 食事っ!」
「そこに食パンがあるっしょ?」
「あーーー?! これ、噛れって言うのかよっ! バターとかジャムはっ?!」
「ないっす。俺、ド貧乏なんで」
「……………ホント。そういえば見回しても食うって観念ない部屋だよなぁ……」
「でしょ? そう思ったら、帰りに夕食のひとつでも買ってきてくださいよ。俺、もうすぐ栄養失調で死にますから」
「…………なんか冗談じゃなくてそんな感じ、しないでもない………」
心配げに南砂が室内を見回す。
「生きたタンパク質でもいいっすよ……。俺、出るまで吸いますし」
「あー、それはいいかも。俺、最近犯ってないからな……」
「って、冗談ですよ。冗談。それより早くしないと、いいんですか? 時間」
「あっ!! ヤバいっ! じゃ、俺行くから。お前も今日来るんだよな?!」
「はい。そのつもりですが…」
「いいかっ。沛人に俺のこと聞かれても、知らないで通せよ! 分かったな?!」
「ぁ…はぃ………」
バタバタと慌ただしく南砂が部屋を出て行く。その後ろ姿を見送りながら頭をかいた勇剣は苦々しく口の端をあげていた。
「タンパク質……ホントはマジで欲しいんすけどねぇ………」
●
「ぉはよーっす…」
「ああ。おはよ、今日は早いねー」
「あー。締め切り朝イチですからね……」
いつものようにかつての職場であるトミイチプランに出向く。
違っているのは、自分は私服で、勤務している奴らはスーツだと言うことくらいだ。勇剣は朝着ていたのと同じTシャツにジーンズで企画一課のデスクの前に立った。
「おはようございます、課長」
「んー。でもお前にそう呼ばれる筋合いは、とっくにないはずなんだけどな……」
「すみません、つい呼び慣れてるほうで言っちゃって……」
「あー。まぁいいけど………出来たか?」
「はい」
朝イチで仕上げたポスターを持って来いと命じたのは、松城沛人。元凶である南砂の恋人でもある男だった。
彼は南砂とはまた違い、一見するだけで仕事がデキるんだろうな……と思わせる男だった。俯くと少し垂れる前髪をいつも手櫛で後ろに流し、横に細いタイプの黒縁メガネをかけている。カタブツのようでもあるがそうでもなく、企画会議などでは破天荒な提案を平気で口にする、いつも人より一歩先を行く男だった。そのせいと言えるかどうかは知らないが、彼は南砂と同い年なのにひとりだけ課長の椅子に腰掛けている人物でもある。
口の悪い南砂が見た目『白』ならば、さながら彼は『限りなく黒に近いグレー』と言ったイメージだろうか。彼と南砂との関係を知っている勇剣としては、その点で浮かばれぬ想いをさせられているのがひたすら悔しくもあった。
「どうでしょう……」
「………………うーん………。いいよ、これで行こう」
「…ありがとうございますっ」
「じゃ、これは預かるからな」
「はい」
「ところで勇。あいつ、まだ臍曲げてるのか?」
「ぇ………っと…………」
「大丈夫だよ。あいつは今会議中だから」
「………」
「今日で二日。あいつの逃げ込むところなんて限られてる。お前のところだろう? じゃなきゃ朝イチの会議に無事に出られてるはずないもんな」
「ははは…………。はぁ……。分かってるなら早く引き取りにきてくださいよ、課長」
「だから課長じゃないって」
「…すみません、……沛人…さん。お願いですから………俺の目の前にいつまでもあの生き餌ぶら下げておくの、やめてくださいっ」
最後のほうはほとんど口パクにも見えるほど小さな声で、目の前の沛人に懇願する。しかし彼もまた南砂と同じくらい食えない奴だと言えるので、ちょっとやそっとじゃ動き出してくれそうもなかった。
根負けするのは果たしてどっちなのか……。蛇とマングースの戦いを、その間に立って見物させられているような立場の勇剣は、顔を引きつらせたまま相手の返事を待った。
「勇剣」
「はい…?」
クイクイッと指で近づくように催促される。それに素直に従った勇剣は、沛人と20cmあるかないかの距離で向き合っていた。
「食いたきゃ食ってもいいんだぞ……?」
「ぇ……」
小声で言われても凍りついてしまいそうな言葉に、言った本人が笑顔なのを見てまた凍りつく。勇剣は、けげんな顔付きのまま相手から顔を放した。
「冗談にもほどがありますよっ」
「冗談じゃないつもりだけど?」
「でも先輩は、あなたが迎えに来てくれるの待ってるんですよ?」
「待ってるもんかっ」
「待ってますよ」
「その証拠は? 何かあるのか?」
「………意地悪だな、沛人さんはっ」
「意地悪で結構。毎度おなじみなあいつの我が儘をいちいち聞いていられるかっ。適当にあしらってやってくれ。飽きれば帰って来るだろう」
「………それまで俺に待てと?」
「そう」
「それって相当生き地獄なんですが」
「だからー」
「あー、もういいですっ」
「だな。ただの堂々巡りだ」
「ですね。俺さえ我慢すればいい話ですからっ」
「そうだな。お前さえ我慢すればいい話なんだもんなっ」
「ぅーーー」
結局元の木阿弥だった。
仕事を提供してくれる彼に文句は言えないし、生き餌を食らえば一度では済まなくなることくらい承知の上だ。勇剣は次の仕事をもらって仕事場に帰りながらも疲れた顔をしていた。
本誌に続く
タイトル「恋も仕事も」試読-0808