タイトル「戯れな執事」
綾瀬家就寝の時間。広い屋敷のそのひとつひとつの部屋をチェックして回るのは、一日の最後の執事としての仕事でもあった。
「異常はありませんでした」
「そうか」
「では、私はこれで失礼します」
「待て」
深く頭を下げて自室に戻ろうとする砥崎を引き留めたのは鉋木だった。
「話がある」
彫の深い顔立ちをした鉋木が渋い顔をして相手を見据える。
「……それは、今でないと駄目なんですか?」
「ああ。なるべく早いほうがいいだろう」
「…」
「私の部屋に来てくれ」
「分かりました」
おとなしくついて来る砥崎を気にしながら、鉋木は渋い顔を崩さなかった。
彼・砥崎がここに来てから数年、仕事での小さなぶつかり合いはあった。しかし今回の出来事は鉋木にとってはぶつかり合いどころではない。黙っていられないものがあったのだ。
鉋木の立場は、この館の当主である
鉋木は自分の部屋に彼を連れてくるとネクタイを少しだけ緩めた。すると少しだけ仕事から解放された気分になるからだ。
「砥崎」
「はい」
「お前、あのチビ犬を連れて菱田の家まで行ったそうだな」
「……はい。主人のご学友をお連れしに」
「何があった。あちらの執事から苦情が来ているぞ」
「些細なことです」
「……些細なことで苦情など来はしない。もっとはっきり言わないと分らないのか」
「……すみません。主人のご学友にあまりの仕打ちをされたものですから、脅しのつもりで少しキツい物言いをしました」
「それだけか?」
「……はい」
「そうか…」
その言い分を聞いた鉋木は、目を伏せながら彼の前まで来ると相手を覗き込むように顔を近づけた。そしていきなり彼の束ねた黒髪を鷲掴みしたのだった。
「うっ…!」
「それだけではないだろうっ!」
掴んだ髪を力任せに後ろに引っ張ると、砥崎は天を仰いで堅く目を伏せた。その表情はひどく歪むことはしなかったが、ひたすら我慢しているように見えた。
「ぅぅっ…!」
「お前は、当主である私の主人を愚弄しただろうっ!」
「そ…のようなことは決して……!」
「嘘をつけっ!」
「ほ…んとうですっ…」
「私は菱田の執事に散々厭味を言われたんだぞっ?! お前のところの執事は、子供の喧嘩にわざわざ当主の名を出して威張り散らすのかとっ!」
「ちっ…がいますっ! 痛っ……ぁ……確かに…当主のことはっ…ぁ…口に…しま…した……。だけどっ……菱田のしたことは……許される範疇では…ご…ざいませんでしたっ……。だからっ…ぁ……ぃ…痛いっ…。手を……放してくださっ…」
「いいか。当主は、お前の主人ではないっ。私の主人だっ」
「は…はぃ、分かっておりますっ。だ…から手を…っ……。お願いしま…す」
「っ…」
懇願されて仕方なく髪の毛を引っ張っていた手を放す。砥崎はその場で力が抜けたように床にへたり込んで俯いた。それでも鉋木の気持ちは収まることなく、余計にいらだってしまう。鉋木は、自分の主人が自分よりも格下の執事にいいように言われるのが許せなかったのだ。
「お前の働きは常日頃から買っているっ。しかし今回の言動は軽率過ぎるっ!」
「………」
「以後慎むようにっ!」
「…すみま…せん。でも…先にも言いましたように、今回の相手の振る舞いは決して目を瞑っていられるものではございませんでした」
「…」
「当主のことを口にしたのは軽率でした。反省しております。ですが、決して愚弄などと言うことではございませんので、…その点は分かって欲しく思います…」
「……」
俯いていた顔をあげ必死に訴えられた鉋木は、一瞬彼が色っぽく見えてしまいたじろいだ。
なっ…何だ、今のはっ……!
ハッとして頭を二、三度横に振ってみる。そしてもう一度相手を見ようとした時、砥崎が立ち上がろうとしてよろめいた。
「ぁ………」
それを反射的に受け止めると、またしても我が目を疑ってしまう事実に直面する。乱れた髪に半開きになった艶やかな唇。きっちりとスーツを着こなしているはずなのに、彼から漂っているのは明らかに雌の匂いだった。
鉋木は自分の感じていることが信じられなくて何度も瞼を綴じては開いてみた。しかし現実は変わらなかった。彼は彼なのに彼ではない何かがいるような……。そんな錯覚に陥る。
「すみません……」
彼の唇が妖しくほほ笑んで言葉を醸し出す。
「ぃ…いや…………」
「鉋木さんや当主には、今回のことではご迷惑をおかけしたと思っております。以後気をつけますので、お許しください」
胸に抱いていた砥崎がそう言いながら体を離す。
「ぁ……ああ…………」
長くて短い一瞬。
ハッと自分を取り戻した鉋木は、自分が惚けていたのではないかと思って焦ってしまった。だからとっさに咳払いをしてバツが悪そうにそっぽを向いてみる。
何を馬鹿なことを………。
自嘲しようとしても今の感情は拭えない。
「それでは、失礼いたします」
深々と一礼をして砥崎が部屋を去って行く。
鉋木は閉まったドアを見つめながら「冗談だろっ……?」とつぶやいたのだった。
終わり 20100316
タイトル「戯れな執事」